常に動き続けている私のマインドの思考が、あるときにパタッと停止してしまったことがあったのですが、そのときには時間というものはないということがはっきり分かっていました。
時間などというものはないということは、その前から知識として知ってはいたのですが、その知るということと、分かるということには天と地との違いがあるのです。
私たちが日頃使っている「知っている」という言葉は、たいていが知識として知っていることを指すのです。
たとえば、誰でもみかんを知っていますが、それはみかんという概念を知っているということ、そしてみかんについての情報を知っているということです。
それを略してみかんを知っていると表現しているに過ぎないのです。残念ながら、目の前にある「このみかん」を知ることはできません。
せいぜい口に入れて、甘いとか酸っぱいということを知るだけで、そのみかんを丸ごと知ることはできないのです。
もしも思考を完全に停止してしまうと、みかんという概念すら使えなくなってしまうので、どれほどそれを見つめて見たところで、そこにどんなみかんも見出すことができなくなるのです。
無思考状態において、後に残るのは気づきだけなのです。話を元に戻して、時間がないということの気づきを、どんな言葉でも説明することはできません。
真に「知る」とは、結局気づきのことを指すのでしょうね。気づきを説明することは不可能です。なぜなら、そこには思考が入る余地がないからです。
私たちの生活の99.999999…%が思考で彩られているということを言いたかっただけなんですけどね。