物語がエゴの餌

覚者とは、その真実を、自分が自分の世界の創造者だという真実を見抜き、それから退いた人のことだ。彼はもう創造しない。仏陀のような人は世界を持たずに、ここで、この世界で生きる。それがひとりの覚者であることの意味だ。彼はこの世界に生きる。が、彼にとって世界はない。

by osho

言葉を変えて言えば、覚者とは、この世界、あるいはそこでの自分の人生は、自分の思考が作った物語だということを見抜き、もう二度と物語を作らなくなった人。

仏陀のような人は、見抜いただけでなく、物語を作ることをしなくなってしまったと言っているのです。つまり、彼には人生がないということです。

なぜなら、彼という表現がもうすでに適切ではないのですが、彼というエゴは存在していないので、そこに人生があるはずがないということです。

私は当然のことながら、覚者でも何でもないので依然として日々物語を紡ぎ続けているのですが、それが物語だという感覚だけはあります。

瞑想中だけはその物語は停止してくれるのですが、普段の生活に戻ればすぐに思考が活動を再開してしまうために、物語が展開しだすのです。

これ全体が物語だと気づいたとしても、何もせずにいられないのがエゴなのです。するべき何もないという気づきとともに、人生はとてもシンプルになってきます。

けれども、エゴは消滅を恐れて、あれこれ画策しだすのですが、私の場合には、外側にある擬似的な物語を使って、エゴが死なないようにしているようです。

それが映画を観たり、テレビを観たりすることのようです。物語がエゴの餌であることは疑いようのないことだと、自分の生活から明確になりますね。