ブログを欠かさず書き続ける理由は?

このブログは、2009年3月5日からスタートしたのですが、どういうわけかこれまで毎日書き続けてきてしまいました。

たった1日だけ書かなかった日があったのですが、それも書き忘れたか、何か理由があってアップすることができなかったはずなのです。

要するに、今日はお休みしようと思ったことが1回もないのです。その理由をあれこれいろいろ考えて見たりしたのですが…。

一つはっきりしているのは、忙しくない毎日を送っているからなのでしょうね。これといってやらなければならないことが、ほとんどないので。

書きたいことはあるけれど、今日は忙しくて書く時間がなくなってしまったので断念した、ということがないということです。

そして最近では、ここまで続けてきてしまったことだから、尚更中断することができないという変な状態にはまり込んでいるのかもしれません。

自分の中でノルマになっていたり、ルール化してしまったりすると、それをおいそれと破ることができなくなったりするものですね。

さらにもうひとつ、せっかくここまで続けてこれたのだから、どこまで続けていけるのか記録を伸ばしたいというエゴ的な発想もあるのかもしれません。

ときどきですが、なぜかそれまでやってきたことを一度全面的にリセットしてしまいたいという欲望が起きることがあるのです。

全部なかったことにして、またイチから始めようというあれがやってきたら、その時はどうするのか、自分でも興味深いですね。

真理のフレーバーを感じる

人類から戦争がなくならない理由は、マインドが発達してしまったからです。マインドというのは思考の塊であって、思考とは論理、つまり正しいか正しくないかなのです。

各々のマインドが独自の正しさを持っているために、当然の結果として正しさ同士がぶつかって争いになるのです。簡単に言ってしまえば、自分は正しい=他人は正しくないなのです。

もしも誰もが真理のフレーバーをもっと強く感じるようになったら、争いごとは少なくなってしまうはずなのです。

なぜなら、真理というのは論理的な正しさ、あるいは論理的な矛盾をそのままに含んでしまう無限の包容力を持っているからです。

真理のフレーバーを感じるためには、もっともっとハートを優位に生きられるようにすればいいのです。

ハートそのものが真理だと言うことではないのですが、ハートは論理を知らないのです。だからハートはマインドの言い分を判断しないのです。

理不尽過ぎてどうやっても納得できないと立ち往生しているなら、真理のフレーバーを取り込むために、ハートの声を聞くようにすればいいのです。

そうすると、解決以外の道が見つかるはずです。解決はマインドのやり方であり、ハートは包含することで問題が消滅してしまうのです。

「やらなければならないこと」などない!

私たちは日々、やらなければならないことをいくつも抱えながら生活しています。子供の頃なら、宿題、勉強、学校に行く、歯を磨く、等々。

大人になれば、一般的に言えば子供の頃以上にやるべきことが増えていくものです。一つひとつそういったものをこなしながら、人生が推移していくわけです。

けれども、「やらなければならないこと」というのは、与えられた人生という物語の中でのみ存在するのです。

ひとたびその物語から抜けた視点に立てば、やらなければならないことなど本質的にはひとつもないということに気づくのです。

やるべきことをやってもやらなくても、いつかはその物語には終わりがくるので、どちらであろうと何の違いもないからです。

始まった物語は、いつか必ず終わりを迎えます。始まったのに終わらないもの、あるいは始まってないのに終わりが来るものは、ありません。

また、始まりがないものには終わりもないのです。話を元に戻して、もしも今あなたがどうしてもやらねばならないと思うものがあって、それができずにいるとしても、そんな事実もいずれは消滅してしまうということ。

ただ物語の住人と同化してしまったがために、苦悩してしまうだけだと気づくことです。やらなければならないことなど、夢の中の泡のようなものです。

同化から抜けるには?

内奥無比なる実存は鏡のようなものだ
それはその前に来るものすべてを映し出す
それはただ、ひとりの<観照者>となるのだ
空腹や満足
生と死
そこに起こることがなんであれ
それは鏡の前で起こるのだ
決して鏡そのものに起こるんじゃない
これが非同化だ
これが根を断つことだ
一番の根本を

by osho

↑ここでは起こるすべてをそのままに映し出す鏡であれと言っているのです。それが非同化だと。逆に言えば、起こっていることに巻き込まれて、その一部になってしまうことを同化というのですね。

同化してしまうと、起こっていることを歪めてしか映し出すことができなくなってしまうのです。巻き込まれて勝手な反応をするようになるからです。

他の表現を使えば、映像とスクリーンの関係ということもできます。私たちは同化することで、自分のことを映像の中の人物だと思い込んでいるのです。

そこには常に物語が展開されていますが、スクリーンはどれほど物語と密着していようと、物語の一部ではありません。

映像と同化しないでいられるなら、自分の本質はスクリーンだと気づくはずだということです。それを純粋な意識と呼んでもいいし、気づきと呼んでもいい。

同化しないようにするためには、常に起きていることの物語性に気づいていることです。夜寝る前に、今日一日の自分の物語はどんなだったか見てあげるのです。

そして本当の自分は、その物語の中にはいないということに気づけばいいのです。自分はただそれを見ているだけだったということに気づくのです。

これこそが同化から抜けている状態ということですね。

<ものみ>と<行為者>

その中心を覚えておきなさい
自分のふるまいを見守りなさい
自分の行為を
さまざまな自分の同化を–
するとひとつの距離が生みだされる
<ものみ>と<行為者>がふたつのものになる
あなたは自分自身が笑っているのを見ることもできる
そして、あなたは<見るもの>のままでいる

by osho

自己同一化は意識的でないとき、つまり無意識のときに限って起こるということを覚えておくといいと思います。

人生の最初に起きた同化は、自分のこの身体を使ってのものだったのです。というより、身体があったからこそ同化をするようになったのです。

幼い頃は、そのほとんどを無意識的に生きていたために、身体との同化は簡単に、起こるべくして起こったとも言えるのです。

その次には、自分の心(マインド)との同化が起きます。それがエゴ(自我)なのですが、これによって、人間が人間らしい成長を遂げていくのです。

けれども先程書いたように、同化は無意識的なときにしか起きないのですから、エゴも無意識下での産物なのですね。

私たちは、日頃自分が意識的な存在だと思い込んでいますが、その実態はほとんどが無意識に生きているということです。

だから身体やマインドとの同化のままに人生が推移するのです。そこには、<ものみ>の自己を発見することができません。

今後あなたが100%<行為者>として生き続けるのか、<見るもの>としての自己を発見することになるのか、その違いはあまりにも大き過ぎて表現することもできないくらいです。

完全か不完全かを頓着しない

不完全でいて、成長し続けなさい
なぜなら、それが生というものだからだ
完全であろうとなんかしないこと
さもなければあなたは成長を止めてしまうだろう
そうしたらあなたは仏像のようになってしまう
石ころだ
いくら仏像でもそれは死んでいる

by osho

私たちは成長することで一歩一歩完全な自分になっていくのだと思い込んでいますが、完全になろうとすれば成長は止まってしまうと言っているのです。

これはどういうことでしょうか?ここでいう成長とは何のことを意味するのかを考える必要がありそうです。

子供の頃は非力であり、無力であることを惨めに思うものです。だから、なにがしかの努力をして自分に力をつけていくことが一つの成長だと考えているかもしれません。

あるいは、半人前だった自分が大人になって分別ができるようになって、社会で認められるようになることが成長だと思っているかもしれません。

他人のために役に立つ自分になること、社会貢献などを通して価値ある自分になっていくことこそが成長だという意見もあるかもしれません。

けれども、↑ここで言う成長とは気づきのことです。どれだけ多くのことに気づいていくことができるのかということ。

最終的には、自分の実在に気づくこと、真実に気づいていくことこそが成長というものだと言っているのでしょう。

それは完全になることとはまったく異なることですね。真実は、完全とか不完全といった思考の範疇ではないからです。

真実に気づいていくためには、日々外側を見る代わりに内側を見る訓練をすることです。社会でどれだけ活躍したところで、気づくことにはならないばかりか、気づきを妨害されてしまうかもしれません。

内へ内へと意識を向け続ける練習をすることです。それが唯一の成長への道なのですね。

存在は価値判断できない

子供の頃に親から褒めてもらえなかったので、大人になっても周囲から褒めてもらいたいという欲求があるという人がいます。

褒めてもらうと嬉しいからと…。言葉を変えれば承認欲求が強く残っていると言うわけですが、これは若干正しくありません。

褒めるというのは、条件付きで肯定するということです。つまり、100点とったから褒められるのであって、100点とるということが必須なのです。

子供の頃にある程度受けとめられたという感覚があれば、殊更褒めて欲しいとは思わなくなるのです。なぜなら、100点とって褒められたら、10点とったら否定されると分かるからです。

また褒めるというのは、実は褒める側の勝手な気持ちであって、受け止めることとはまったく違うということにも気づくことです。

褒められる対象が自分の言動や成果であるのに対して、受け止められる対象は自分という存在なのです。

存在を条件付きで肯定することはできないので、しっかり受け止められた子供は、この違いをはっきりと肌で感じ取っているのです。

受け止められた感が乏しくて不安を抱えていると、条件付きだろうがなんだろうが構わないので、褒めてもらうという分かりやすい方法を希望するようになるのでしょう。

大人になっても褒めて欲しいが強く残っている場合には、とにかく「存在」に意識を向けるように練習する必要があります。

存在価値についてセッションでお話しすることが多いのですが、実はこの言葉は自己矛盾を持っています。なぜなら、存在を価値判断することはそもそもできないのですから。

存在は思考がないときに、ずっしりと感じるものです。したがって、存在に気づく練習をすれば、おのずと思考から離れることを意味しますので、一石二鳥なのですね。

勇気をもって「無」を見てあげる

内側が完全に中空になった一本の竹
休むときに
自分が一本の竹であるかのように感じてみてごらん
内側の完全に空っぽになった竹だ
これは事実そうなのだよ
あなたのからだはちょうど竹みたいなものだ
そしてその内側は中空だ
皮膚

血液
みな竹の一部だ
しかし内側には中空の空間がある

by osho

自分は身体(竹)ではないとするなら、内側の中空の部分が自分だということになりますね。自分とは「無」だということ。

まだ物心がつくずっと以前から、その何もない中空の部分を、外側(親)から押し付けられたイメージで塗り固めてしまったのです。

それを自己イメージとして、何十年も後生大事に維持してきたのです。その自己イメージを初めに入れ込んだのは幼い自分ですが、それを定着させたのはそれ以降の自分なのです。

その上、その自己イメージが正しいものだと自分に対して思わせるように生きてきてしまったのです。だからそれを信じるしかできなくなったのです。

自己イメージがどんなものであれ、それは思考の産物であって、すべては幻想なのですが、思い込んだ頃あまりにも純粋無垢だったために疑うことができなかったのです。

ただ外側からやってきたものをそのまま入れ込んだのです。もしも「A」を「B」に塗り替えたのなら、「A」を思い出すことができるかもしれません。

けれども、何もない真っさらな「無」に「A」と描いてしまったために、「無」を思い出すことができないのです。

もっと言えば、「無」よりも「A」の方がまだマシということかもしれません。何せ、「無」は不気味だし恐ろしいのですから。

でも勇気を持って、「無」であることを見てあげればいいのです。それで死ぬことはありません。なぜなら、「無」だからですね。

思考は止まらない

思考を見守ること
もしそれを見守れば
あなたは完全に静寂になるだろう
思考は続くかもしれない
浜に打ち寄せ
岩に砕ける
が、あなたは穏やかで静かなままだ
波はあなたに影響すまい
だから本当の問題は思考ではなく
影響されるということにある

by osho

思考を止めようとする必要はないし、そうしない方がいいのです。なぜなら、止めようとするその努力が思考と闘うことになるからです。

それが新たな思考を生み出してしまうのです。思考は良いも悪いもなく、自分を取り巻くエネルギーなのです。

自分の周りにどんな種類の思考がやってくるのか、そこにどのような傾向があるのか、そういったことを見続けるのです。

きっとこれまでに取り込んだ思考と同じようなエネルギーを持った思考がたくさんやってくるはずです。

それは「エネルギーは友を呼ぶ」という法則なので、それに逆らうことはできません。ただそれを見守っていれば良いのです。

思考は止まらないものだと理解することです。ただそれに飲み込まれてしまわないでいられればいいだけです。

どのような思考であれ、やさしく見守ってあげてみてください!

ずっとそこにあったもの

ちょっと内側をのぞいてごらん
ちょっと何かの瞬間に
どこにも行かず
無欲望で
未来のことも考えず
過去のことも思わず
ただいまここにとどまっているだけ–
で、突然それはそこにある
それはずっとそこにあったのだ
そしてあなたは笑い出す

by osho

いつでもどこでもすぐにできる。どんな努力も、労力も、時間もかけずにできるのだから、なるべく忘れずにしかも適当にやればいい。

たとえ10秒でも構わない。これ、本当の話し。一生懸命やれることではないし、大上段に構えて時間を決めてやることでもない。

残念ながらやったことは蓄積されない。そしてこの世界ではまったく評価の対象とはならないし、誰にも気づかれることすらない。

でも誰かとお話ししながらでもできるし、テレビを見てる最中でも一瞬中断するかもしれないけれど、やれないことはない。

最高に嬉しいときにもできるし、ひどく落ち込んでいる時だってできる。そしてそこは絶対的に安心できる場所。

でも慣れないうちは、なるべく穏やかな心の状態の時から始めた方がいい。起きていること、周囲に飲み込まれているときにはやりにくいから。

よくよく感じてみれば、ずっと以前から常にそこにあったと分かるはず。ただクローズアップされていなかっただけだと気づく。

そしてもっともっとそれに馴染んでいけばいい。馴染めばそれだけ忘れることのできないものになるから。