意識とはスクリーンのこと

母国、人種、宗教、家族、伝統、そして
今までに受けた傷、それによろこび
その起こったすべてが自我なのだ
そしてあなたは
これらのことすべてが起こった対象だ。
この区別を理解しておかなければならない。
あなたは
それらすべてが起こったその人
だがエゴとは起こったことそのものだ。

by osho

↑この意味をどのように解釈すればいいのでしょう?なかなか分かりづらい内容だと思います。私自身もそれほど深く納得できているわけではないかもしれませんが…。

例えば、映画館で上映されている映像を見てみると、その映像によって様々なことが表現されているわけです。映像の中身こそが、擬似的とはいえ起こったことそのものです。

それがエゴであるとするなら、その映像が投射される対象がスクリーンなのですが、そのスクリーンこそが我々の本質だということです。

エゴというのは、あらゆる起こったことと無意識的に自己同化してしまっていると捉えてもいいのです。私たちの本質は、すべての自己同化が外れた後に残るもの。

それはナニモノでもない、何も無さ、映像自体はスクリーンによって支えられているのに、そのスクリーンの存在を映像(起きたこと)は知らないのです。

なぜなら、映像(起きたこと)は物語であり、スクリーンはそれを見守る側だからです。意識的であるということは、スクリーンとしての自己に気づいている状態ということですね。

希望製造メカニズム

あなた方は希望製造メカニズム
そしてこの
希望製造メカニズムこそエゴにほかならない!
では、どうしたらいい?
実のところ、どうこうすることは何もない。
ただあなたがたにはもっと明晰な眼が必要だ。
唯一必要とされるのは
あなた自身を新鮮な眼で見ること

by osho

希望という言葉の響きはとても明るい前向きな感じがして万人が好きなものですね。だから、希望の党のようなネーミングにも使われるわけです。

確か今日は総選挙の公示日ですかね?そこに水を差すわけではないのですが、希望というのは、願望であり、欲望とも言えるわけです。

じゃあ、欲望の党?でもよさそうなものですが、ニュアンスの違いが明確にあるので、そうはいかないのですね。

けれども、そのニュアンスの違いは根本的に間違っているということです。希望こそが、エゴの餌なのです。そのことは、誰もが身をもって経験しています。

希望に燃えているときには、とても明るく張り切っていることができますね。つまり、それだけエゴが喜んでいるということです。

逆に、希望が減って行くと未来の展望が見えない状態になって、気持ちも落ち込んで暗くなってくるのです。つまりエゴが困窮しているということです。

希望はエゴの餌なのです。だからエゴという幻想から遠ざかろうとするなら、希望をなくしていく必要があるのですが、それはなかなか難しいことです。

それよりも、希望をエネルギー源として生きているエゴを、クリアな眼で見守ることによって、エゴが自然に衰退していく方を選ぶことが肝要なのです。

意志の力が落ちるとき

意志の力は役に立たない
ほんとうは、意志の力は力などではまったくない
なぜなら意志とは自我に依存しているもの
非常にちっぽけな現象だ
大きな力など生みだせるものではない
意志をもたずにいるとき
そのときあなたは力に満ちている
そのときにはあなたは
全体と一体になっているからだ

by osho

私たちは、↑ずっとこの反対のことを教えられてきました。強く、確固とした意志を持って、人生を切り開いていかなければならないと…。

意志の力が弱ければ、自分に負けてしまう。そんな軟弱な人間になってはいけない。だから、逞しい精神力を持つことが、人として素晴らしいことだと感じるのです。

実は努力が絶対的に必要だと感じる間は、確かに一理あるのですが、努力によって成し遂げられたことは、osho がいうように、非常にちっぽけな現象なのです。

なぜなら、どんな努力も物語を観る側へ行くことを助けてはくれないからです。努力の本当の目的とは、努力(意志の力)では真実へ近づけないことに気づくこと。

その気づきとともに、その絶望がやってきたときに初めて、努力(意志力)も一緒に落ちることになるのです。

それが全体性と一つになること、全体にサレンダーすることなのですね。

思い込みが至福を遠ざける

信じがたいことかもしれませんが、私たちが暮らしているこの世界というものは思い込みが土台となって成り立っているのです。

思い込みというのは、違う言葉で言えば信じることです。そして一般的には、この思い込みという言葉には、否定的なニュアンスが含まれていますね。

それはあなたの勝手な思い込みだよ、という具合に使われることが多いからです。つまり、思い込みとは事実に反して、あるいは事実を捻じ曲げて信じることを意味するからです。

私たちが共通に持っている根深い思い込みとは、私という個人がここにいるということです。まぎれもない事実だという感覚も持っているので、この思い込みを見破ることはとても難しいのです。

「私」という認識は、自然なものではなく、無意識的とはいえ人為的にでっち上げられたものだということです。

このブログでは、このことを繰り返しお伝えしているのですが、もしもこのことをああそうなんだと信じてしまうなら、それこそまた新しい思い込みが1つ増えるだけのことになってしまいます。

自分はどうしたらより幸せな人生を送ることができるかということを、誰もがどこかで考えているのですが、その根っこには、「私」という個人がいるという思い込みがあることを忘れてはなりません。

「私」が満たされることは原理的に決してあり得ないということを深く理解することができると、残された道はただ1つ。

いかにして、「私」がいるという思い込みを暴き切るかということに尽きるのです。それは幸不幸を超越した、真の至福への唯一の道だからです。

あなたがいなければ、至福がやってくる

あなたがいればいるほど、病いは深まっていく。

あなたがいなければいないほど、あなたはますます健やかになる。

あなたがいなければいないほど、あなたは重さをなくしていく。

あなたがいなければいないほど、あなたは神性を得て至福に満ちる。

by osho

こんな理不尽な仕打ちってあるのだろうかと思いませんか?

自分が満たされないのは、自分がいるからだと言われているのですから。けれどもこれは正真正銘の真実なのですね。

私たちが、これこそが自分だと思い込んでいるマインドこそ、病みの中枢なのです。なぜなら、ひどい妄想から分裂を起こしているからです。

その妄想による分裂した内面をマインドと呼ぶのです。そのすべては思考によってでっち上げられるのです。

それでも、誰もがそこを通過しなければならないのです。なぜなら、そのマインドによってほんの少し意識が表面に出ることができるからです。

だからそこまでは、間違いがあるわけではないのですが、何が問題かというと、その妄想を妄想だと見抜けぬままに人生を終えることなのです。

生きてる間に、自分の真の正体を見抜くことができるなら、万事塞翁が馬なのです。何があろうと間違いではなく、ただ気づけばいいのです。

たとえそれが、次の、またその次の人生であっても。

<実在>は特別な「私」の存在を許さない

一片の白い雲
それには根というものがない。
それは根を下ろすことのない現象–
どこにも落ち着くことなく・・、いや
どこにもないところに落ち着いて
なおかつ存在する–
<実在>するもの全体はまさに一むれの白雲
根もなく、因果もなく、本源的な原因いっさいなくして
存在する。

by osho

1日のうちのほんの数分でもいいから、物語の中にいる自分から抜け出して、ただこの瞬間という<実在>とともに在るようにしてみることです。

<実在>とは、今ここのこと。この瞬間以外にはどんな時もないし、ここ以外のどの場所というのも存在しないのです。

このことに深く信頼を置くことができると、きっと瞑想の質が変化してくるはずです。頭で理解しているだけでなく、そこに信頼が加わることですべてが一変します。

この瞬間が在るのに、どんな原因もないし、どんな目的もありません。それはただそのようにして在るだけだから。

そのことを深く深く、より深くまで見通そうとしてみて下さい。どんな因果も、本源的な原因もいっさいなく存在するなら、この「私」がいられるはずがないと気づくかもしれません。

「私」というエゴは、何かのために存在していると思いたいのです。何かの目的があって、それを達成することに意味があり、価値があると信じたいのです。

それがすべてただの幻想だとわかった時、この上もなく軽い気持ちになると同時に、「私」はもたないでしょう。

<実在>はそんな特別な「私」の存在を許すことはないのですから。

周囲に対して意識的でいられる人

日頃電車に乗る機会がほとんどなく、代わりにクルマでの移動ばかりなのですが、運転していて気づいたことがあるのです。

それは、狭い道をクルマで走っている時に、そこに歩行者がいて、その人を追い越す時に思うことなのですが…。

歩いている人は、いくつかのパターンに分類できるのです。後ろから来たクルマに気づいて、少し歩みを止めて後ろを振り返る人。

あるいは、クルマが来たことには気づいているのだけれど、振り返ることはせずに、ちょっと道の端によって車をやり過ごそうとする人。

さらには、クルマが来たことには気づかない感じのまま、ただただおのれの歩みを進める人。

私の感覚では、最後のパターンの人が最も多いのです。つまり後ろからどんなクルマが来たかなどには無頓着で、自分の世界に入り込みつつ歩き続ける人。

こういう人は、きっと思考の世界に入り込んでいるのでしょうね。周りで今この瞬間に何が起きているかということに気づくことができずにいるのです。

一方、クルマの気配を背後に感じて、それなりのアクションを起こせる人は、周りで起きていることに気づいている人です。このことは、性別や年齢には無関係のようなのです。

不思議ですね。遊ぶことしか考えていなさそうな小学生の男の子でも、クルマが行ってしまうまで待っていることができる子供もいるのです。

きっとクルマの存在に気づかない人の方が、この社会では上手に生きていけるのかなと思ったりして…。

私は個人的には、気づいている人の方がいいように思います。なぜなら、それが意識的であることに通じるからです。

あなたはどのタイプですか?狭い道を歩く時に、自分がどのように行動しているのかを是非検証してみて下さい。

 

 

大人の姿をした子供

子供の頃にはごく普通に経験していたものが、大人になるに連れて経験しなくなっていくものってありますよね。

たとえば、子供は成長の段階で大人や親から叱られる、あるいは怒られるという経験を何度も繰り返して、いろいろなことを覚えていくのです。

生きていく上でのごく基本的なことは、やはり年長者から教わらなければ分からないのですから。それがときには、叱られる、怒られるという形をとるわけです。

さすがに大人になったら、そういうことは減っていくものですね。いい大人がそんなことも分からないのかと思われたら、もうあきらめられてしまうからです。

大人になったら、むしろ助言されるとか、意見されるなどのように、上から目線ではなくある程度対等な立場からものを言われるという形になるのです。

ところが、クライアントさんとお話ししているときに、「叱られる」「怒られる」という表現をされることがあって、それを聞くたびに違和感を感じてしまうのです。それは上述したことが原因なのです。

また、子供の立場は非常に弱いので、親に捨てられたら生きてはいけません。だからこそ、子供の時には「捨てられたら…」という危機感があるわけです。

大人になっても、「私は彼に捨てられた」と言っている人がいるようですが、同じ理由で非常に違和感を覚えるのです。

大人同士であれば、何がどうなったとしても、相手を捨てるとか、相手に捨てられるということはあり得ないはずです。

このように子供の頃に特有の体験を、大人になっても引きずっているという自覚があるなら、インナーチャイルドのエネルギーが強く残っていると見るべきです。

こういう状態では、子供の頃のあの不自由さをずっと抱えながら生活していかなければならなくなってしまいますね。

大人の姿をした子供が、社会の中で生きていくことを考えたら、それは相当に大変なことだとわかります。早めに癒しを進めて行く必要があるでしょうね。

絶滅危惧種について

<全体>があなたに生を与えてくれたからには
どうして<部分>がそれを改善することなんかできる?
<源>からすべては来ている
どこまでもその<源>に供給をまかせなさい
あなたは不必要に出しゃばっているのだ
そうしてあなたは
すでに海に向かって流れている川を押し流そうとしはじめる

by osho

↑これを読んでふと思ったのですが、絶滅危惧種ってあるじゃないですか。何とかして、絶滅しないようにとあらゆる手段を講じて保護するわけです。

確かに一度絶滅してしまったら、もう二度とその生物を見ることはできないのですが、それはそれでいいのではないかと思うのです。

<源>からやってきたものは、いずれは<源>へと還っていくことになっているのです。なぜなら、永遠なのは<源>だけで、そこから供給されるものは何であれ一過性のものだからです。

この世界は全て一過性の儚いものばかりでできているのです。何かの種が生まれても、いずれは必ず絶滅することになっているのです。それが自然だと思うのです。

無理やり絶滅しないようにと、あの手この手で種の延命を画策する必要はないのだろうと感じるのです。我々人間でも同じこと。

いずれは誰もが<源>へと還っていくのですから、それが悪いことでもいいことでもないということです。無理な延命はエゴのなせる技。

自分だけが延命しようとして、闘って人類レベルで滅びてしまうとしたら、皮肉なことですが、それはそれでいいのかなと…。

「私」は決して満足できない

ただあなたがいる
あなたはあなたの意識の中に住まう
それはあなたの唯一の世界だ
ほかには何も存在しない
これが心も無心も超えた境地だ
これが<理解>の至上無比の境界だ
これ以上のものは何もない
そして、私はあなた方に語りたい
これに到着するまでは決して満足しないこと

by osho

↑こんなこと言われなくても、満足なんて決してできないのは自覚しているはずですね。もしも今十分に満足していると感じている人がいるなら、それがいつまで続くかを見ていればいいのです。

満足などとは程遠い、私自身はずっとそう感じながら生きてきた自覚がはっきりあるのです。そもそも満足なんてものがあるのだろうかって気がしていました。

今でははっきりと分かるのです。「私」というエゴは、不満足なしではやっていけないものだということが。満たされないということが、生きることの原動力になっているのです。

その不満足とは、不足感、不自由感、それが不安と孤独を必ず伴うのですから、自分をごまかさずにいれば、誰でもこうしたものをずっと持って生きていることに気づくはず。

はっきりさせましょう!あなたがあなたのままでいる限り、何をどれだけ手に入れることができたとしても、決して本当の満足などやってくることはあり得ません。

満足してしまったら、あなたは逆にあなたのままではいられなくなってしまうというジレンマを抱えているからです。それなのに、私たちは満足したくて毎日何かを求めて彷徨っているのです。

真の満足は、あなたがいなくなったときに、あなたは意識であることに気づくときに、それは初めからそこにあったことにも気づくのです。

夢のない話ですね…。けれども残念ながら本当のことです。