重荷を解き放す

人は誰かから期待されることをいつも望んでいます。期待があれば、それだけやる気も出てくるだろうし、自分にはそれだけの価値があると感じるからです。

誰からも何も期待されなければ、自分はなんて惨めな奴なのだろうと思ってしまうのです。だとしたら、期待されることがどれほどありがたいことなのか…。

けれどもその期待が一方では、ひどい重荷となって自分を苦しめてしまうこともありますね。その期待に応えられそうにないと思えば、その重圧に押し潰されそうになるかもしれません。

そして他人からの期待よりも、もっと重くのしかかっていつまでも続くのは、自分が自分に与えた期待なのです。

たとえば、親は子供を愛さなければならない、あるいは反対に子供は親を愛するはずだという期待。でも薄々感じている、そうした常識的なことに対する違和感。

本来、生はどんな決め事やルール、常識などによっても縛ることはできません。それ自体が生き物のように自由自在に変化するし、なんでもありなのですから。

そのことを深く理解することができたら、自分にどんな期待も当てはめてはならないということが分かるはず。

そして知らず知らずのうちに、長きに渡って背負ってきてしまった重荷に気づき、それを一刻も早く解き放してあげて下さい。それ以上に価値あることはないのですから。

エゴには愛が分からない

自分が愛していると感ずるときには
ちょっと見守ってごらん
あなたは所有性を表しているだろうか?
もしそうだとしたら
あなたはその人を殺そうとしているのだ
というのも
所有され得るような人間などひとりもいないのだから
所有され得るのはものだけで
人間は無理だ

by osho

若い頃から、自分には人を本当に愛することなどできないんだなという自覚があったのです。そのことで少しは悩むこともあったと思うのです。

けれども、次第に気づいたことがあったのですが、それは他の誰もが似たようなものだということを。結論から言えば、誰もが真の愛を知らないということ。

私はあなたを愛しているという場合の「愛」には、実は様々なものがあって、そのほとんどがエゴの愛だと分かったのです。それからは気が楽になりました。

なぜなら気づかずに本当の愛だと思っているよりも、愛ではないと気づいている方がどれほどましか…。

エゴの愛は、所有欲から発生するものです。だから好きになると、相手を自分のものにしたいと思うし、反対に相手のものになりたいという願望も生まれるのです。

所有欲も執着も、どちらも対象はモノです。つまりエゴの愛は、相手をモノ扱いしているということ。だから相手にこうして欲しい、ああして欲しいという気持ちが起きるのです。

親が子供をコントロールしようとするのも、決して愛からではなく所有欲からなのです。だから、コントロールされた子供は、それが愛なのだと騙されるのです。

エゴには愛が分からないということを、深く理解することができると、悩まなくて済むのです。愛はエゴが小さくなった分だけ深くなることを忘れないことですね。

真実は譲渡不能

真実というのは情報じゃない
それは何か、手から手へ譲渡できるものではない
たとえもし私があなたに真実を譲り渡そうとしても
あなたの手に渡ったとたん
それは虚偽になってしまうだろう
それこそまさに真実の本性なのだ
譲渡不能–
あなたがその中へと成長してゆかねばならない

by osho

物語というのは、情報として語り継ぐことができるけれど、真実はそういうものではないということです。

どんな言葉を使っても語ることのできない何か、思考によって縛られない、論理によって推理することすらできない、そういう意味では不条理なものです。

もちろん想像することもできません。なぜなら、イメージというのは思考がベースになっているからです。

だから真実についてのどんな説明も、方便になってしまうのです。それを指し示すことはできても、それを表現することはできない。

歴史上残っている、あらゆる宗教の経典は、そういう意味では全部方便なのです。般若心境でさえ、方便としか言いようがありません。

真実は分かち合うこともできないのです。なぜなら、それは私たちの奥深くに隠されたものだから。真実はまったくもって個人的なもの。

その完全に個人的なものが裏返って全体性へと繋がるのです。孤独から逃げずに、その奥へと進んで行った先に、孤独が不可能だと知ったときに、真実はあるのでしょうね。

淡々と準備をしつつ、待つ!

エゴの基本的なスタンスというのは、このままではダメだ!というものです。現状に甘んじることなく、先へ先へと進んでいくこと。

このような考え方、生き方が社会的にも良しとされているのです。だから、誰もが子供の頃からこのような生き方を目指そうとします。

このことにあまり疑問を感じずに、がむしゃらに前へ向かって突進していける人はある意味幸せかもしれません。

ところが、人によってはこれがどうもしっくり来ないという人もいるのです。その場合には、社会や親に対して反発してしまうかもしれません。

私の場合は、前者のふりを少ししながらも、内側がではまったくもって後者の状態でした。そのために、自分は一般的ではないと感じていたのです。

今ではそのどちらでもないという理解に至ったのですが、それは成し遂げるということに価値を見出さない生き方であるとも言えます。

本当に大切なことは、エゴの意思や努力では決して成し遂げられないということに気づいたからです。私たちができることは、準備を淡々と続けていくこと。

それは華々しくもなく、賞賛されるようなことではないのですが、深い気づきというのは向こうからやってくるのです。

ただし、それがやってきてくれたことに気づくためには、準備をしておく必要があるということ。できることはそれだけなのです。

自分本位の勧め

もし世界中の誰もが自分本位だったら
世界はビューティフルだろう
ちょっと考えてみてごらん
誰もが幸せでいようとしている
誰もが祝おうとしている
誰もが静かで、瞑想的で
祈りに満ち、愛にあふれていようとしている
そういうものこそ幸福のもとだからだ
世界は幸せになるに違いない

by osho

自分本位になって下さいということは、16年以上前にセラピストになった頃からずっと言い続けていることの一つです。

↑ osho のようなすばらしい表現はできなかったですが、言いたいことは全く同じなのです。

けれどもどういうわけか、クライアントさんの中には「ノー」が言えない人がたくさんいらっしゃるのも事実なのです。

自分を最優先することができなければ、その後に続く愛の姿が見えてこないのです。愛は与えることですが、それは溢れ出てくるものを分かち合うことなのです。

枯渇しているなら、決して与えることなどできません。自分本位とは決して誰かと闘って勝つことではありません。

あくまでも自分らしく、あるがままに、ありのままに生きていくということを実践するためには、自動的に自分本位になるのです。

全ての人が誰かの目を気にすることなく、我のまま、つまり我がままに生きるなら、osho が言うように世界は幸せになるに違いありません。

愛はあなたのためになる!

人々を愛しなさい
無条件に
もし内心何か条件を持っていたら
絶対に愛することなどできない
そうした条件が障壁となってしまう
愛はあなたのためになる
どうして条件などにかまうことがある?
愛は実に有益なものだ
それは何とも深い健康状態だ

by osho

今日はちょっと自分としては苦手な内容です。人々を愛しなさいと言われても、そうできないからこそ苦しんでいるのですが、愛すればすべての苦しみは消えてしまうと言っているのですね。

なぜなら、愛はエゴを枯渇させてしまうから。エゴを弱体化する方法はいくらでもあります。たとえば、無邪気さの中で生きる。無防備になる。深い瞑想に入る。そして愛するということ。

エゴは愛を知らないのですから、愛しなさないと言われても土台無理なことですが、だから最初は愛する真似事でもいいのかなと。

真似している間に、時として急にフワッと内側が軽くなることがあるなら、その瞬間マインドが停止している状態なのです。そのとき、エゴは一瞬消えるのです。

苦しみの創造者であるエゴがなければ、身体も内面も健康になってしまうのは当然のことですね。だから、愛はあなたのためになる、と言っているのです。

もちろん、この場合の「あなた」というのは、エゴが消えた後に残るあなたの本質のことを言っているのですね。

自信なんて必要ない!

クライアントさんの中には、何事にも自信がないので困っているという方がいらっしゃいます。あるいは、何かのきっかけで自信がなくなってしまったという場合もあるでしょうね。

なぜ私たちは、自信のある無しを気にするのでしょうか?確かに、うまくできなかったことも自信をつけることで、上手にできるようになることはあります。

けれども、幼な子は自信があるかどうかを気にしたりしないものです。それはまだエゴ自体が幼いままだからです。

つまり自信のある無しを気にするのはエゴなのです。エゴはいつも誰かの高評価を得たい、認められたいと願っているのです。

その思いが不安を作り出し、緊張することでかえって能力を使いこなせなくなってしまうのです。

だからこそ何度も練習を重ねて自信をつけることで、その不安や緊張が小さくなり、良い結果を生み出すことができるのです。

癒しの観点からすると、自信をつけることはエゴを強化することでもあるのです。自信がないから自信をつけなければならないという、硬直した考えを一旦脇に置いてみることです。

そして自信が必要な理由は、人からの評価を気にする、つまり自己防衛が原因なのだということに深く気づくことです。

そうすれば、防衛を小さくしていくことによって、自信など必要ないということがはっきり理解できるようになるはずです。

明日のことは明日の自分に任す

目的地のことは心配しなくていい
ただ、最初の一歩を踏み出すことを楽しみ
その中に歓喜しなさい
そうすれば
二歩目は一歩目から自然に出てくるだろう
そして、三歩目がその後に続く
あなたがそれを心配する必要はない
明日は明日にまかせるがいい
明日のことを思うなかれ
楽しみなさい!

by osho

↑このことは、癒しについても言えることなのです。セラピストというのは、どうしたら癒しを進めていけるかということを、クライアントさんに提示するのが仕事です。

この方向に進めていけたら、その先には光がありますとお伝えするのですが、いきなりその光へ到達することはとても難しいのです。

けれども、クライアントさんの本音は一気にその光をつかむにはどうしたらいいのか、そんなことは自分には無理ではないかと思ってしまうらしいのです。

そんなとき、光までの階段が十段だとしたら、今日は、初めの一段を上がることだけを意識してくださいというのです。

今日の自分にできることだけを、できるだけ楽しみながら実践すること。決して二段目以降のことを考えないこと。

二段目以降のことは、一段目を上がった未来の自分に任せてしまえばいいということです。今の自分が明日も継続しているという想定ほど、馬鹿らしいものはないのです。

私たちは、決して連続体ではありません。いつも新しい自分が発生しているということにも、意識を向けて見て下さい。

それができると、未来を不安視することも小さくなってしまうはずです。

分裂の度合いを小さくする

私たちの分裂した内面のことをマインドと呼ぶのだということは、何度もこのブログでお伝えしてきたことです。

あの人と結婚したいというマインドの部分があれば、結婚したくないという部分もあるし、セッションを受けたいという部分があると同時に、セッションは嫌だという部分もあるのです。

もしもマインドが分裂しなくなってしまったら、もうそれはマインドではなくなってしまいます。というより、マインドという内面は消失するのです。

ということで、誰のマインドも同じように分裂という病みを抱えているのです。ただ、その分裂の度合いの大小によって、病みの深さが変わるのです。

激しく分裂してしまうと、非常に生きづらい人生へと進んでいくことになってしまうのです。それは、分裂した各部分が極端な特徴を持つことになると同時に、表面化するのはどちらか一方に限られてしまうからです。

たとえば、幼い時に無邪気さを抑圧して一切それを使わないようにしてしまうと、その無邪気さの部分は野生児のように保存されて、社会性が非常にに乏しいものになってしまうのです。

逆に、抑圧が比較的小さいものであるなら、無邪気さと社会性が同居することになり、バランスのとれた大人になることができるのです。

この場合は、分裂が小さいことになるわけです。したがって、癒しというのは、分裂した各部分が互いの距離を縮めていく作業だと言ってもいいのです。

そのためには、リーダーシップを取れる部分が、その他の部分を受容することが必要なのです。受け止めることができたら、距離は一気に縮まるでしょうね。

エゴは何もせずにはいられない

あなたがたは何かに従事していたい。
だからエゴを落とすことはできないでいる。
空っぽで何も従事することのない状態でいられる用意があなたがたにできないかぎり
たとえ必要とされなくっても、それでもなお生を楽しみ祝福する用意ができているようにならないかぎりエゴが落ちることはありえない。

by osho

私たちは確かに何もしないでいることができません。ただ黙って静かにしていると、そのうちにはムズムズしてきて、立ち上がって何かをしようとするのです。

それはちょうど、息を止めている状態と同じなのです。息を止めて、少しの間は大丈夫なのですが、そのうちに窒息するあの苦しさがやってくるのです。

そして息を吸わなければどうしようもないあの感覚になって、息を吸ってしまう。それが立ち上がって何かを始めることと同じなのですね。

息を吸わなければ、死んでしまうのですが、それは何もせずにいればエゴが死んでしまうのと全く同じこと。

これといって何もすることがないと、私たちは退屈しだすのですが、あれは息が充分に吸えずに息苦しくなるのに似ています。

何もしないでいれば、そこに物語を見出すことができなくなってしまうので、物語の住人であるエゴが死んでいくのです。

だから私たちのエゴは、躍起になって何かをすることを探すのです。忙しくしていると、どこか充実感があるのはこんな理由があったのです。

立ち上がって何かをし出すことを止めていると、今度は思考が忙しく働き出すのです。そして、グルグルと何かを取り留めなく考え続けるのです。

これがエゴの作戦なのですね。逆に何かと忙しくしている人は、エゴが喜んでいるということに気づくことですね。