自然の中には誰もいない

一人ひとりの人物が、自律的に生きてこの社会を作り上げているという感覚が、私たちの共通の認識となっていますね。

その思いがとても強すぎて、疑うことなど到底ない状態なのです。当の本人とか、張本人などという言葉があるように、一人ひとりが行為者なのです。

行為者であり該当者であり、はたまた経験者であるように言われて、それが当たり前になってしまっているのです。

だからこれを覆そうとするなら、大変な意識革命を必要となるのもうなずけます。仏陀が言ったように、「行為はあるが行為者はいない」と言われたところで、まったくピンとこないのです。

行為者どころか、経験者もいないし、ようするに誰もいないのです。あたかも、一人ひとりが自発的に、意思を持って自由に行動しているかのような錯覚。

誰もいないのに、なぜ社会が成り立っているのかと不思議に感じるかもしれませんが、そこに個別性がないだけで、全体性の一部としてあるということ。

動物や植物を見れば分かるように、それぞれが勝手に生きて勝手に動き回っているかのように見えるのですが、それもすべてが全体性の一部だということ。

私もあなたもみんながそうなのです。あなたと誰かが喧嘩をしようと、愛し合おうと、そこにはどんな違いもないということですね。

それなら、なるべく気楽に生きればいいじゃない!ってことになりますね。

自分がいなくても大丈夫

私たちは、いつも身近にいてくれる家族とか恋人、あるいは友達などが急にいなくなってしまったら、とても寂しい思いをしますね。

だから独りにはなりたくないと願っているのです。けれども自分自身がいなくなったら、とは決して思わないものです。

なぜなら自分自身がいなくなるということは、生きている限りはあり得ないことだと信じているからです。どこまでいこうが、人生がどうなろうが生きていれば自分はこうしていると思っています。

ところが私の実体験を基にするなら、それは間違いなのです。自分がいなくなるという体験は実際に起きることがあるのです。

自分がいなくなるといっても、個人としての自分がいなくなるだけで、今ここに在るという誰もが持っているこの感覚は、まったく変わらずにありました。

そのために自分がいないのだと分かっても、何の違和感もなかったですし、敢えて言えば自分がいるという通常の状態よりも明らかに自然な感じがしたのです。

普段よりももっと繊細で、内面は静寂そのもの、そして時間は実在しないということまではっきりと分かるのです。

あまり明確には覚えてないですが、幸不幸も消えていたと思うのです。要するに、人物としての自分がいないと分かっている時、何の問題もないばかりか非常に意識的なのです。

余分な思考はすべて消えてしまい、真のただあるがままのむき出しの今にいるだけ。物語は消えて、何かしなければならないこともなくなります。

自分がいれば苦しみは避けられないのですが、自分がいない状態ではただ解放されていて、何もかもがそのままでシンプルそのもの。

でもまた思考を使えば、物語は再開するのですけどね。

嫉妬心も悪くない

先日あるテレビ番組を観ていて、とても興味深いなと思ったのですが、それは嫉妬を感じた相手についてを語る、暴露する内容だったのです。

ホ~、こんな番組があるんだと思って観ていると、著名な芸能人やアスリートの人たちが、密かに思っていた嫉妬を感じる人について、赤裸々に告白するのです。

何故興味を持って観ることができたのかというと、一般的には嫉妬というのは相手に対しての負けを認めることだからですね。

それも一方的に相手と争った末に、これまた一方的に負けたと感じているということが、いかにも惨めな感じがするからです。

自己防衛という観点からすると、嫉妬心はどこまでも隠しておきたいものの一つなわけです。そこを心開いて、正直に語るからこそ人の心を打つのですね。

で、私もアイツには負けたと感じたことがあるのですが、それは高校生のときでした。ひどい雨降りの日に、友人と一緒のバス停で降りて、家まで歩いて帰るときのこと。

私は傘をもっておらず、濡れて帰ろうとしていると、彼が持っていた傘の中に私を入れてくれたのです。ここまではごく普通の親切な人の話しです。

けれども、家の近くまで送ってもらって、お礼を言って別れた後、踵を返して帰っていく彼の後ろ姿を見たときに、びっくりしたのです。

彼の身体の半分以上がビショビショに濡れていたのです。彼は傘をほとんど私の方に差し出したまま、一緒に歩いてくれていたのですね。

胸が熱くなると同時に、絶対彼には勝てないという嫉妬がやってきたのを憶えています。嫉妬心も逃げずにじっくり味わってあげると、不思議な心地よさがあるものですね。

真実は非二元

コインの表と裏が必ず存在するように、この二元性の世界は常に相対するものがペアで存在することで成り立っているのです。

好きがあれば嫌いがあり、信じるがあれば信じないが同時に存在するのであって、どちらか一方だけでは存在し得ないのです。

役に立つことをしようとすれば、それは同時に不利益を伴うことになるということを知ることです。このことは、視野を狭くすることで気づけなくなってしまうのです。

たとえば、愚痴を聞いてあげることで相手の気持ちが晴れるなら、それは役に立ったと感じるでしょうね。けれども長い目でみれば、そのことで相手が自分を見つめるチャンスを台無しにするとも言えるのです。

ライオンに襲われるシマウマを見れば残酷なことに映るのですが、それで生態系が成り立っていると分かれば、残酷さの中にも救いがあると分かるのです。

このようにして、私たちは二元性の世界で生きていることを忘れなければ、安易に誰かの役に立ちたいなどということも言わなくなるのです。

同様にして、物事の正しさにもしがみつかなくなるのです。自分の正当性を頼りにしている人は、相手の間違いを拠り所にして生きているのです。

正しさだけでは成り立たないからですね。自己の全体性に戻る時、正しさも間違いも同時に含んでそれらを超越していることに気づけます。

この世界を捉える思考が二元性を作り出すのであって、真実は非二元なのですね。そこにはいいも悪いもありません。

役に立ちたい症候群 再び

もしもあなたが何かの役に立ちたい、誰かの役に立ちたいと思っているとしたら、気づいて欲しいことがあります。

それは、純粋な愛であればあるほど、そんな思いを持つことはないということ。端的に言って、愛は役に立ちたいと思うことなどないということ。

勿論愛が誰かの役に立つ可能性はあるのですが、本人がそう言った思いを持っているということがないということです。

納得いかないという声が聞こえてきそうですが、本当のことです。なぜかというと、役に立ちたいという思いの根っこには、しっかりと役に立つ自分がいるからです。

役に立つ自分でありたいというのが本当の気持ちと分かれば、なるほどと分かってもらえるのではないでしょうか?

役に立っている自分であれば、自分の存在価値は保証されるし、人からの評価は高くなるでしょうし、つまり必要とされる人物でいられるという安心感。

それが欲しいだけなのだと分かればいいのです。何もそのことが悪いということではありません。ただ愛とか好意からではないということ。

親は愛する子供のために役に立ちたいなどとは思わないものです。自分が役に立つかどうかということには、まったく関心がないはずですね。

いつもブログで書いているように、どんな思いであれその裏に自分に対する関心があるなら、それは愛ではなく防衛だということです。

桜の姿に思うこと

東京では、そろそろ桜が満開になりそうになってきましたね。各地の名所では、たくさんの人出でごった返すのでしょう。

川や池などの周囲にある桜を見ると、水面に向かって伸びている姿を見かけますが、あれはなぜだか知っていますか?

植物は基本的に太陽の光に向かって成長するのですが、水面が近くにあると、水面が太陽の光を反射するために間違ってそっちに向かって伸びるのだそうです。

でも水面すれすれのところで、また上に向かって伸びていくのは、今度は水面近くの空気の温度が低いので、そこから遠ざかろうとするのかもしれませんね。

桜にはどんな意思も思考もないし、当然無意識状態なのに自然の摂理によって、そうした姿を見せてくれるわけです。

実は私たちも桜と基本的には同じなのです。思考によって、エゴが作られることで自分は特別な存在だという自覚を持っただけで、本当はどんな行動も自動的なのです。

川の水面に落ちた桜の花びらが、放っておいてもいずれは大海原まで運ばれていくように、私たちもいつかは誰もが大いなるふるさとへと戻っていくのです。

それが決まっているのですから、人生が不安ばかりで生きづらくても、それをそのままにして、今日見える川の景色を楽しめばいいだけなのですね。

ただ待つだけでいい

急ぐことなんか何もない

<全体>それ自身がひとりでにあなたを導いてゆく

あなたが個人的に奮闘する必要はない

誰もあなたに

あなたの時機が来る前にたどり着くことなど求めてはいない

ただ待つだけでいい

<全体>が動いているのだ

なんで急ぐ?

なぜ人より先にたどり着こうとするのか?

by osho

理由なき否定は厄介

幼い頃に、親やその他の家族に否定された経験がない子はいないでしょうね。どんな言葉や態度であれ、何らかの否定をされたと感じたことがあるはずです。

周りは、特に否定したとは思っていないとしても、当の本人が否定されたと感じれば、それは否定されたということになるのです。

その結果、幼い心の奥深くに否定的な自己イメージが形成されてしまうのです。そしてその多くは云われのない否定なのです。

〇〇だからダメなんだと云われたとしても、それが繰り返されるうちに、自分という存在がダメなのだというように解釈されてしまうのです。

能力や容姿、あるいは性格などを否定されたとしても、やっぱり最後には自分という奴はダメなのだに持って行ってしまうのです。

そうなると、そこにはもう否定される理由というものがなくなってしまいますね。つまり理由などないのだけれど、とにかく否定される存在だという信念が作られるのです。

こうした自己否定感、あるいは否定的な自己イメージがあれば、当然のことながら何とかして肯定的に見てもらえるようにと頑張るのです。

けれどもどれほど肯定的な部分を増やして行ったところで、たった一つの理由なき否定があるだけで、すべてが無駄骨になってしまうのです。

このようなエンドレスの無駄骨から抜け出すためには、次のことを深く理解することです。催眠術で動物にされた人を見たことがあるでしょうか?

あなたはライオンになる!のようなバカバカしい指示通りに、ライオンになったように行動するのは、潜在意識が指示を素直に受け入れる特徴があるからなのです。

催眠術は、人の潜在意識に直接指示を与えるために、理性ある大人であっても素直に言うことを聞いてしまうわけです。

幼い頃というのは、それとまったく同じ状態なのです。ウブなマインドはそれ自体が潜在意識むき出し状態のようなものなのです。

だから家族の言葉一つ一つをそのままに受け入れてしまうのですね。つまりインナーチャイルドは大人になった今でも、深い催眠状態のままで、云われたままを信じて疑うことができずにいるのです。

そのことにしっかりと気づいてあげることです。そんな理不尽な自己否定を固く信じているインナーチャイルドを不憫に感じて、抱きしめてあげることです。

そうすればいつかは、大昔の理由なき否定をゴミ箱に捨てられる日がくるはずです。

罪悪感を直視する

クライアントさんとのセッションで、頻繁に話題になるのが罪悪感についてです。それだけ罪悪感というのは、人生に大きな影響力を持っているということですね。

勿論罪悪感自体がそんな多大な力を持っているというわけではなくて、私たち自身が罪悪感を感じることをとても恐れているからこそ、影響が大きくなるのです。

できる限り、罪悪感を感じないようにしようとすることで、シンプルな人生から遠ざかってしまうことになるのです。

たとえば、家の稼業を継いで欲しいと願っている親の期待を裏切って、ミュージシャンになろうとすれば、相当な罪悪感がやってくるはずです。

あるいは、友達の彼氏のことを好きになって、結果として横取りしたような事態になったとしたら、そこでも罪悪感は避けられないでしょう。

このように、罪悪感とは主に自分以外の誰かに対して感じるものですね。ときとして、ルールを犯してしまったことに対する罪悪感のようなものもあるかもしれませんが、こちらは軽微なはずです。

ただし間違った宗教などの教えにがんじがらめになっているとしたら、こうした規則違反にも強い罪悪感を感じる場合もあるでしょう。

自分の気持ちに正直に行動するなら、人生はいたってシンプルに推移するはずなのですが、そうすると必ず罪悪感がやってくるのです。

その罪悪感を極度に恐れて、誰かの気持ちを優先し過ぎるなら、今度は罪悪感からは逃れることができる一方で、ひどい自己犠牲と怒りにまみれることになるのです。

そのバランスがとれている場合には、比較的人生は安定するはずです。個人的には、どんな罪悪感が来ようと、自分本位に生きる練習をすべきと思っています。

罪悪感から逃げれば逃げるほど、それだけ罪悪感を大きく感じるようになるからです。逆に罪悪感を手なずけて、友達のようにしてしまえばいいのです。

そうなれば、人生はシンプルでやさしい微笑みをくれるようにもなるはずです。

何者でもないという気づき

自分とは何者なんだろうと思った時、目に見える肉体以外の部分はそのほとんどが思い込みの塊でできているということが分かります。

その思い込みの基本的な部分は、幼い時に作り込まれます。その代表となるものは、他のみんなと同じように、一人の人間としての自分がいるという思い込み。

それをベースとしてあらゆる経験をしてきた自分がいるという思い込みで、うず高く積み上げられてでっちあげられたのが自分なのです。

いいイメージであれ悪いイメージであれ、そのようにして作り上げられたのが自己イメージなのです。私たちは、その自己イメージを深く信じてしまったのです。

それを真実、あるいは事実としてみているために、そこから抜け出すことができなくなったのです。自分のままではダメだと信じて、もっともっととなるのです。

その間違った闘いから脱するためには、まず自分は思い込みの世界で生きているということに気づくことです。

知っていると思っていることは、そう信じ込んでいるだけだということに気づくことです。たとえば、地球は丸いということを知っていると思っていますね。

けれども本当は、地球は丸いという情報があるということを知っているというだけなのです。その情報を単に信じているに過ぎないのです。

この違いを見抜くことです。誰であれ自分の年齢を知っているのですが、実は自分は何歳だということをただ信じているだけなのです。

それは、幼い頃にあなたは何歳だよと言われたことから始まったのですから。その情報を信じたことで、そこから知っているという状態が継続して今日に至っただけなのです。

すべては思い込みなのです。それを信じているだけで、本当は何も知らないということ、その気づきを日々の生活の中に浸透させていくのです。

そうやって少しずつですが、とんでもない不愉快な自己イメージから脱出することができるようになるのです。いつかは、自分は何者でもないというところに戻ることになるのでしょうね。