癒しは向うからやってくる

癒しの本質とは、何かを新たに覚えていくことではありません。もうすでに詰め込み過ぎるくらいに詰め込んできてしまったのですから。

そうではなく、最も大切なこととは、生まれてからこれまで学習してきたこと、培ってきたもの、信条や信念、あるいは主義主張などを捨てていくことなのです。

一生懸命頑張って、勉強して得た知識、それを捨てるなど到底考えられないと思うとしても、それは無理もないことです。

なぜなら人間というのは、投資してきたことには必ず執着を持つからです。その投資が大きければ大きいほど、執着心も大きくなるのです。

けれども、もしも自分の人生に何らかの不具合を抱えているとするなら、それこそが頑張って投資してきた結果だということに気づくことです。

投資する理由は、欲しい結果を手に入れたいがためです。それが叶うことも勿論あるのですが、いずれは期待通りにいかない現実がやってきて、苦しむことになるのです。

そんなとき、いきなりただ執着心を手放そうとしてもそうはいかないのです。その手放そうという意気込みが、新たな執着を生むのです。

現在あるがままの自分をあるがままに見てあげること。それを繰り返し実践することです。今の自分を何とかしようとする代わりに、ただ見て放っておくのです。

なるべく対処せずに、やさしい気持ちでそのままにしておいてあげるのです。そうすると、努力の結果ではなく、自動的に執着が小さくなって行くのです。

そして気がつくと、癒しは勝手に向うからやってきてくれるはずですよ。

子供が作った大人の自分

私たちは、年齢とともに自然と成長して、社会性を身につけた大人へと変わっていくわけです。初めは親や兄弟などの家族との関わりがありますね。

そして幼稚園や学校などで同年代の友達との関わりがあって、いずれは社会に出て行くのですが、その過程で良いにつけ悪いにつけ揉まれて大人になっていくのです。

それが自然な成長の過程なのです。けれども、幼い頃の家族との関わりにおいて、ゆったりと安心して過ごすことができないでいると、その子自身が自分を大人のようにさせるのです。

自然な過程で揉まれて大人になったわけではなく、自己防衛のために止むを得ず無邪気さを捨てて、大人っぽい生き方を始めてしまうということです。

それはある面ではその子を助けることにもなるのですが、一方では大切な無邪気さを封印して、自己犠牲が続く毎日となってしまい、いずれは破綻を起こすことになるのです。

擬似的に作り上げられた大人の自分では、実際に社会に出ても無理や我慢が限界を超えて、どうしても生きづらい人生になってしまうのです。

大抵は、自分が他の人たちのように普通の社会生活を送れないと悩むことになるのですが、それは本当の大人になっていないからだと気づく必要があるのです。

幼い頃に封印してしまった無邪気な自分のことをしっかり思い出して、その存在を自分の中で使ってあげることです。つまり表舞台に出して活躍させてあげるのです。

そうすることで、大人っぽさと無邪気さのバランスが取れるようになって、少しずつでも生きることが楽になっていくはずです。

便利なもの程悪用されやすい

ネット社会となり、SNS などが一般的になるにつれて、誰もが不特定多数に向けて気軽に発言できるようになりました。

そのときに、便利なのが「匿名」での書き込みですね。自分の正体を隠すことで、気負うこともなく気楽に書き込むことができるわけですから。

自分の素性がばれてしまうと、相手に気を使ったり自分が評価されることを心配して、自由な気持ちでの書き込みができなくなってしまいます。

そういう意味で、「匿名」という機能はそれなりに意味があるのです。けれども一方では、相手を批判したり否定したり、誹謗中傷のターゲットとする場合には、問題が出てきます。

ターゲットとなる側も匿名であるなら、大きな問題はないのですが、発言する側だけが匿名を使い、ターゲットとなる側の本名等が分かっている場合、対等な関係ではなくなります。

日本はネット社会としては、非常に遅れた文化の中にいると思いますね。聞いたところでは、アメリカでは相手を否定するような場合には、自分の素性を明かすのが暗黙のルールになっているようです。

相手の素性が分からないというのは、それだけで不安を感じるものです。匿名で書き込むときほど、相手に気を使うという態度が必要なのではないかと思うのです。

その代わり、言いたいことがある場合には、素性を明かした上で明確な自己表現をするのがいいのでしょうね。

ネットとはまた異なるあることで、この数日相手の素性が分からずに、少々嫌な気持ちでいたのですが、警察が調べてくれたおかげで相手のことがある程度分かり、安心したという経緯があります。

こんなちょっと珍しい体験をしても、そんな自分をただ見ていてあげられればいいのですね。

何があろうと、「ただそれだけ…」

世の中には、本当に嫌なこと、ムカつくこと、悲しいこと、恐ろしいこと、驚愕するようなこと、あるいはとても感動的なこと、笑い転げるようなこと、様々なことがてんこ盛り。

そうした出来事の中で一喜一憂しながら生きているのが人生です。誰だって自分の身に起きて欲しくないことが起きれば、気持ちが落ち込んだり、人生を呪ったりするのです。

一方、歓喜するようなことが起きたり、心穏やかに安らいでいられたら、生まれてきて本当によかったと思うのでしょう。

けれどもどちらにしても、ただそういうことが起きて、そういう体験をして、そういう反応をしているだけなのですね。

遅かれ早かれ、いずれはどんなことでも消えていくことになるのです。それを深く感じていると、「ただそれだけ」というあの感覚がやってきます。

それこそがどんな拘りも消えて、奥深い安らぎを感じられる瞬間なのです。日頃はどうも忘れてしまいがちですが、どこかには持ち続けていたいものです。

私たちはの本質は、何もない、無なのです。そのことを思い出せば、いつだって深い深い静寂の中に戻ることができるのですね。

座右の銘を持ってる?

あるテレビ番組で見たのですが、座右の銘を持っている人の割合は、全体の2割ちょっとくらいだそうですね。みなさんは自分の座右の銘を持っていますか?

社会で活躍している人は、持っている割合が多いということも言っていましたが、そうなのかもしれませんね。ちなみに私は特別何もありません。

どうしてもと言われたら、小学生の時の寄せ書きに書いた、「明日は明日の風が吹く」が自分の生き方に一番しっくりくる言葉かもしれません。

そういう意味では、子供の頃からベースとなる生き方というのは、変わらないものなのですね。目標を掲げるというのがどうも苦手なのです。

かといって、若い時に何の目標もないのは、それはそれで違和感があったので、自分の中で分裂していたのだと思います。

今ようやくこの年齢になって、どんな目標もないという毎日が、しっくり馴染むようになったのです。それでも私の中にいるエゴは、毎日無為に生きるのは駄目だと思っているようです。

そこのところも、きっとこの先も変わることはないのでしょうが、やっぱりそんな自分をただ見るというところに戻るのみです。

人生に目標は不要、人生そのものが目標だから

私たちは誰でも人生は意義深いものでなければならないと思っています。誰にも認めてもらえないような人生では困るのです。

みんなに称賛されるような、価値を認めてもらえるような人生にしたいと願っているのです。そういったことが人生の目標にもなっているのですね。

だからその目標からはずれていると感じれば、それだけ苦悩するわけです。そして少しでも、目標に近づこうとして頑張るのです。

けれども、そういった目標を作ってしまうと、欲求は留まることを知らないのです。どこまでいってもまだまだだと不足感を感じてしまうのです。

そのため決して目標が達成される日はやってきません。だからエゴは生き続けていられるのです。万が一、目標を達成してしまったとしたら、欲望が消えた瞬間にエゴも一緒に消える運命にあるからです。

人生に目標などいりません。どんな目標も必ず未来にあるからです。未来を夢見れば、現在の苦悩を紛らすこともできますが、それはエゴが生き残りをかけてやり続けていることです。

人生に目標が必要なのではなく、人生そのものが目標なのです。つまり今この瞬間にあらゆる目標が達成されてしまっているのです。

だから人生は何かを達成するという類いのものではなく、ただ何が起きてもできるだけ素直にそれを全身全霊で味わえばいいのです。

どの瞬間も本当は奇跡の連続なのですが、思考が未来へと向かっているのでそのことに気づかずに逃し続けているのですね。まったく残念なことです。

でもそんな自分をただ見ているだけでいいというところに、また戻ればいいのですね。

 

「ただ見ること」こそ真の瞑想

私の知る限り、最もシンプルなのに継続するのが最も難しいこと、それは「見ること」です。解釈や判断なしに、ただ見ること。

どんなクライアントさんがどんな問題を抱えていらしたとしても、本当に伝えたいことは、実はこれ以外にはないのです。

けれども、内容があまりにもシンプルなので、説明するにしても一分でおわってしまうので、セッションにならないのです。

クライアントさんが求めているものは、明らかにこんなことではないと分かっているので、具体的なことをお話しすることになるのです。

その具体的なこととは、例えば「人はこうあるべきという考えを捨ててください」とか、「ノーを言えるように練習してください」とか。

あるいは、都合の悪いことから目を背ける代わりに、そこから逃げずに感情をしっかり味わって下さい等々。

クライアントさんと二人三脚で一生懸命心の癒しを進めていくのです。それは勿論、それなりの効果が出て、クライアントさんは楽になっていくのです。

けれども、どこかの時点で「ただ見ること」を思い出して欲しいのです。癒そうがそれをやめようが、どちらにしてもエゴの世界なのです。

ただ見ること、意識的であること、気づいていること。それ以外は何をしても、何をしなくてもいいのです。素晴らしい自分でも、ダメダメな自分でも何でも構いません。

ここで言っていることは、2時間瞑想することよりも、よっぽど難しいことなのです。瞑想して、思考を止めようとするのがエゴであり、そんな自分をただ見ること、それが真の瞑想なのです。

シミュレーションの中で生きている?

イーロンマスクという人を知っていますか?世界最大の起業家と言われている人物です。私は、高性能な電気自動車を世に送り出したテスラ・モーターズの生みの親ということで知っていました。

アメリカの大手自動車会社が諦めてしまった電気自動車を実用レベルにまで仕立て上げた人ですね。クルマは大手会社しか製造できないと思っていたのに…。

そればかりか、彼は PayPal を起業したり、最近では人類を火星に送り込むための会社を作ったり、とにかく誰もが難しいと思うことを実現してしまう人らしいです。

その彼が、「私たちが現実世界の中で生きている可能性は10億分の1程度に過ぎない」といったことを言っているそうです。

彼は、「シミュレーションの中で生きている」という表現を使っているようですが、シミュレーションとは思考だということですね。

つまり、この世界は思考が作った世界だと言いたいのかもしれません。表現方法は違いますが、このブログでいつも言っているこの世界は物語だというのと同じです。

起業家だということで、だれよりも現実的な人物だと思うのですが、きっとどこまでも物事を突き詰めて考えることで、そういった結論に至ったのでしょう。

いろんなジャンルで活躍している人が、こうしたことをさりげなく表現してくれると、人類全体の認識レベルにも影響を与えることになるかもしれないですね。

「独り在る」とは全体性の無限の拡がり

私たちのマインドの根っこにあるのは、不安や孤独といったネガティブな気持ちであり、そういう状態にある惨めな自分から何とか逃れようとして頑張るのが人生なのです。

ところが不安や孤独というのは、外側の世界との関係性の中にこそ存在するものであるのに、その世界の中でそれを払拭しようとするために、その努力は報われることはないのです。

孤独から離れようとして、外側の世界にいる誰かを利用しようとしてしまうのです。誰かと一緒にいることでいっときは、孤独から救われたように感じることはできます。

けれども、孤独の正体とは、自分の本質を見誤ったことから起きるものなので、一向に孤独が終わることはありません。

私たちの本質は、「独り在る」ということ。これは孤独とは根本的に異なるものです。「独り在る」とは、私やあなたといった分離のないことを意味するからです。

独り在ることを深く深く理解するためにも、分離に背を向けて、とことんまで内側へと入って行くのです。そうすれば、孤独ということが不可能であることに気づくことになります。

言葉もなく、ただ独りでいられるなら、そこには孤独などないということ、孤独どころかそこにあるのは全体としての無限の拡がりだったと気づくのですね。

言葉(思考)がないとき、至福がある

テレパシーとか何か特殊な能力を持っている人は別ですが、普通の人は他人とコミュニケーションをとるためには、言葉がどうしても必要になりますね。

だから言葉は私たちの日常生活にとって、欠くことの出来ないとても大切なものです。言葉は思考によって作られることは誰でも知っています。

だから思考も大切なもの。けれども、独りで過ごしているときに、つまり誰ともコミュニケーションを取る必要がないときにも、思考である言葉を使っているとしたらどうでしょう?

それが問題なのです。言葉が自分を乗っ取っている状態だからです。ブログを書くと言った場合のように、明示的に言葉を使う場合は問題ありません。

ここで問題にしているのは、独り言を言ってしまうとか、不必要な考え事をしているときに、口の中でブツブツと何かの言葉を小さく発しているような場合。

そしてそれを止めることができないとしたら、更に大問題なのです。なぜなら、そのときには言葉(思考)はコミュニケーション以外の何かの為に使われているからです。

一日のうちのある時間、30分でも10分でも構いません。とにかく言葉から離れているという習慣を作るようにすることです。

独り静かに過ごすときには、言葉は不要なのです。そのときには、言葉から離れるチャンスが来ているのですから。

言葉から離れた静寂の中に、自分をしばらく居させてあげるのです。言葉がないのが最初は不安に感じるかもしれませんが、それも練習次第で慣れて来るはずです。

言葉(思考)がないとき、そこには必ず至福感があるはずです。