私たちは、目の前にあるものを見るときには、通常何の努力も必要ありません。ただ、目を開けているだけで、見ることができるのです。
何かの音を聞くというときなどはもっと簡単で、何もせずとも耳から音は入り込んでくるのです。そこには、どんなエネルギーも消費することはないのです。
ところで、「私は見る」とか、「私は聞く」というときに、実際に見たり聞いたりしているのは本当に私でしょうか?この質問を小ばかにしないで下さい。
「私は見る」、「私は聞く」というのは、事実のようでいて実は思考がそのように解釈をつけているだけなのです。
本当に起きていることは、ただ見るということだったり、ただ聞くという事象なのです。そこには思考は入り込む余地がありません。
それなのに、思考がしゃしゃり出て、私が見ているのだ、私がこの音を聞いているのだという具合に説明をし続けるのです。私たちは、残念ながらそれを事実と思い込むのです。
さきほどの質問に戻すと、「私は見る」、「私が聞く」というとき、実際には私たちが思っているような私が本当に見たり聞いたりしているのではないということです。
結論からいえば、誰も見たり聞いたりしている主体はいないということです。ただ見るという行為、聞くという行為が起きているだけなのです。
言葉を変えて言えば、思考が見たり聞いたりすることはできないのです!これって、注意深く見ればおのずと理解することができるはずです。
私はこれに気づいたときに、結構驚きました。起きているいかなるものも、思考とは直接関係がありません。思考はそれを独自に解釈しているに過ぎないのです。
一番初めに戻って、私たちが見たり聞いたりするときに、何の努力も必要がないのは、あらゆるものの源泉からそれがやってくるからなのです。
いかにも、思考がそうしたことを起こすエネルギーを持っているように感じるのですが、それは間違いです。
だから、起きていることはただ起きているのですから、それをただそのように受け止めてあげているだけで完結しているのです。
このようにして、思考に左右されなければ、私たちの人生はもっともっとシンプルな清々しいものであることに気づけるはずですね。