私たちは誰もが人生の初めのほうで、自分は身体だという思い込みを持たされて生きるようになるのです。
自分が朝起きるとき、学校で友達と遊ぶとき、家族と食事をしているとき、いかなるときもその中心にいる自分は身体だと認識しているのです。
自分とこの身体との同一視は、気づかぬうちに根深いところに信念として固定されて、それ以降はそのことを疑うということもなくなってしまうのです。
この自己同一視が、どれほど人を苦しめることになるのか、私たちの苦悩のすべては自分が世界から分離した個人だという思い込みからやってくるのです。
この大間違いを正すためには、自分を静かに見てあげる必要があります。身体が「これが自分だ」と言うのを一度でも聞いたことがあるでしょうか?
身体を使っているのは身体ではないことは明白です。身体をコントロールしているもの、それは意識なのです。
自分は意識であると言ったほうが、自分は身体であるというより遥かにしっくりくるとは思いませんか?ところが、ここでもう一つ間違った解釈をしてしまっています。
それは、個人としての私たちの個別性を生み出しているのは、意識というよりも思考なのです。思考は無数に生まれては消えていくものです。
けれども、その思考のバックにあり続ける意識は、生まれたり消えたりすることはありません。つまり、自分は身体でもなく、思考でもなく、意識であるということ。
意識を定義することも、解釈することも一切できませんが、それこそが私たちの本質です。それを気づきと言う人もあれば、源泉、あるいは神と呼ぶかもしれません。
気づき自体がそのことに気づくとき、私たちは人生の中に散りばめられている苦しみから解放されていることにも気づくことになるのです。