私たちが常日頃、ずっとこだわり続けてきたものがあります。それは、自分という存在の価値についてです。そのこだわりは、生半可なものではありません。
自我に目覚めたばかりの一番幼いときには、価値などという概念を持っていませんので、自分はいていいかどうかという感覚を持つのです。
そして、いていいかどうか分からないままに成長していくと、それは自分の存在否定となって心の奥底に蓄積されていってしまいます。
つまり、自分なんていないほうがいいという激しくも惨めな想いに苛まれるようになるのです。こうなると、いていいと思われたいという願望が極度に強くなります。
その結果、自分の価値、それも他人から見た自己価値がどの程度なのかということに強くこだわり続けるようになるのです。
この人生は、常にいていいかどうか分からないという惨めな不安を、何とかして安心に変えたいという想いでいっぱいになり、安心を得ることが最大の目標となってしまいます。
そのために、何かの役に立とうと頑張ってみたり、誰かの期待に応えようとして辛くなってしまう結果を生み出すのです。
まさに、人生が苦しいのはそうした自分の価値を追い求めた結果なのです。残念ながら、存在の価値とはただ思考が作ったものでしかありません。
思考は、本当のところ「存在」についてあれこれ解釈することができないのです。なぜなら存在とは、ただただ存在することであり、思考の範疇ではないからです。
そのことに気づくことです。自分の存在価値の証明に人生の大半を費やすことほど、ばからしいことはありません。
あなたはただ存在しているのです。思考から開放されたときに、それを知ることになります。それ以外は作られた思考の解釈に過ぎません。
その気づきは、同時にあなたという本質がただ在るということに導いてくれるはずです。それはもう存在ともいえない何かなのです。