内側にある沢山の自分

by osho

人は、内側にたくさんの自己を持っている。
グルジェフはよく、あなた方のことを、
誰が主人かを知っている者がいない家だ、と言った。
たくさんの人間がいる。
誰もが客だ。

しかし、誰がその家の主人なのか誰も知らないものだから、
みんなが自分を主人だと思っている。
だから、その瞬間その瞬間、力を得た者が、誰でも主人の役を演ずる。
怒りが力を得れば、怒りが主人になる。
愛が力を得れば、愛が主人になる。
嫉妬が力を得た時には、嫉妬が主人になる。
これは絶えざる戦闘だ。
何しろ客はたくさんいて、そのみんなが主人に、
家の持ち主になりたいと思っているのだから。
そして 誰一人、誰が持ち主なのかを知らない。
持ち主が長い旅に出てしまって、帰って来ないか、
あるいは持ち主がぐっすり眠りこけているかのどちらかだ。
あなた方の自己はぐっすり眠りこけている。

その故にこそ「目覚めよ」と言う、
あらゆるイエス達、クリシュナ達、仏陀達の強調があるのだ。

イエスはこの「目覚めよ」と言う言葉を何度も何度も使い続ける。
「目覚めよ。見よ。油断なく覚めてあれ」と。
仏陀は「もっと意識しなさい」と言い続けた。
意味はひとつだ。
もしその人が意識するようになったら、主人が現われる、と。

そして主人が現われた瞬間……これが素晴らしいところだが……客たちは消える。
主人が存在するようになった瞬間、
召し使い達はただ一列に並び、召し使いになる。
自分が主人だなどとは主張しない。
だから本当の問題は、怒りや、嫉妬や、憎しみと闘うことではない。
本当の問題はその主人の中に入ること、その主人に気づかせることだ。
ひとたび、その主人が気づけばすべてがおさまる。
だがこの気づくと言うことは、自分が源にまで降りないかぎり、可能ではない。