思考の解説を事実と見なしてしまう

ある事象が起きて、思考がそのことを解説するのですが、私たちは起きた事象そのものではなくて、思考による解説の方を事実と見なすのです。

美しい大自然の景色を目にして、言葉を失う体験をしたことが誰でもあるはずですが、そのときには、思考はどこかへ行ってしまっています。

そのときばかりは、私たちは思考によらないただの事象を直接体験することができるのです。それは、感動を与える体験になるかもしれません。

けれども、普段の何気ない生活の中においては、私たちは残念ながらただの事実よりも思考による解説の方に力を与えてしまっています。

だからいつも、心の中でブツブツとつぶやいているのです。思考は大概言葉を使って解釈をするものだからです。

交差点の赤信号に足止めされているとき、早く青に変わらないかなあと思いながら信号機を見つめているとします。

信号が青に変わったと同時に歩き出すとしても、そこに思考など使ってないと感じているかもしれません。

でも、その短い間に私たちの思考は信号が青に変わったという解釈と、歩き出していいという結論を導き出すのです。

自信を持って断言できますが、「信号機が赤から青に変わった」という事実はありません。それは、事実ではなくて思考による解説なのです。

物事がただ起きているという事実に着目することができると、行為者としての自分という存在は、事実ではなくて思考による産物だったと分かるのです。

自分とは何と儚い存在なんでしょうね!