自分という幻想が他人を作る

とある天才科学者が、物体の瞬間移動を可能にするマシンを開発しようとして、どうしたわけか、物体をコピーするマシンを作ってしまったという映画がありました。

そのマシンを使って、絶対にタネが分からない(当たり前ですが)、人の瞬間移動を行うマジシャンの物語なのですが、ここで深刻な問題が発生してしまうのです。

つまり、自分がそのマシンにかかると、自分が二人できてしまうのです。一人は、そのままマシンのところにいる自分、そしてもう一人は近くの別の場所に出現する自分です。

別の場所に出現した自分は、観客から見れば瞬間移動した自分として観てもらえるのですが、マシンのところにそのままいる自分は邪魔な存在になってしまいます。

そこで、マシンのところにそのままいる自分は、見つからないように瞬間的に床から下に落ちて、そのまま水槽の中に入って溺死するというような設定にしたのです。

そうすれば、マジックはうまくいくし、本人は今までどおり一人として生きていけるのです。ただ残念なことに、毎回溺死する自分の片割れがいるということです。

観客は大喜びし、マジックショーは大成功を収めたのですが、映画の最後の方で、そのマジシャンが行った言葉がかなり印象的なのです。

それは、そのマジックをやるときに、毎回この自分は一体どちらの自分となるのか、怖くて仕方なかったといったのです。

つまり、瞬間移動を成功させて拍手喝さいをされる自分として残るのか、それとも誰にも姿を見られることもなく、水槽の中で苦しんで溺死する自分になるのか。

この言葉を聞いたときに、自分が個人として生きていることの矛盾を感じたのです。この問題は、そのまま私たち自身の現状を表しているように思えるのです。

自分を個人だと認識することになってしまったために、世界中にいる70億人を自分ではない人としてしか捉えることができなくなったのですね。

とてもややこしい感じがしてしまうのは、個人という思考がとんでもない発想だからなのだと思うのです。