硬直したものの見方

人間というものは、自己の本質への気づきを通して、世俗的な心の部分が消えていってしまうものだとの間違った思い込みを持っている人がいます。

確かに私自身も、かつてそのように考えていました。イエス・キリストにしても、仏陀にしても物欲などまったくなくなってしまった人物の典型だと考えられるからです。

もう少し近い人で言えば、ラマナ・マハルシなどはいつもフンドシ一丁で、片手に水が入ったヤカンをぶら下げて、杖をついて歩く姿が印象的でした。

勿論私が生まれる数年前に彼は亡くなってしまっているので、そのような姿は写真でしか知らないのですが…。

けれども、その一方で同じインドの賢者である OSHO は素敵なクルマを嬉しそうに運転したりしてる姿を知っています。腕には結構高そうな時計をはめていたりして。

精神性の高さというのは、心の豊かさであり、物質的な豊かさなどはもっての他と思いがちかもしれませんが、そうした決め付けこそがエゴの作戦なのです。

エゴはいつも「こうでなければならない」という「たが」を嵌めたがるのです。そして、そのルールから逸脱したものは、ホンモノではないとして否定するのです。

お金儲けに命をかける賢者というのは、あまり聞いたことがないのは間違いないところですが、経済的に豊かであっても何の問題もありません。

覚醒するためには、難行苦行が必要だとの思い込みと似たようなところがあるのでしょうね。思考の外からあるがままを見れば、もっとずっと肩の力が抜けたものの見方ができるはずです。