今日も大好きなサウナでボーっとした意識の中で、緩い思考が動いていたのですが、そのときに考えていたのが「自分」という思考の発明についてです。
全体性という真実において、自他の区別をするということは途方もなくびっくりするような発明なのではないかと思うのです。
どうやって、全体性から自他の区別ができる個別性を見つけ出したのでしょうか?それはもう不思議としかいいようがありません。
何の答えにもなってはいないのですが、実は思考こそが個別性なのではないかとも考えることができます。
なぜなら、全体性を思考することはできないからです。思考には、全体性という真実についての明確な解明は不可能なのです。
サウナの中では、実はもっともっとこの先が続いていたのですが、もう忘れてしまいました。結局、思考は思考自身をもてあそんでいるだけなのですね。
それはまさしく、この世界についても言えることです。思考が人生という物語を作り出して盛んにプレイし続けているのですから。
天は遊ぶことが好きなのかもしれません。それなら、私たちもそれぞれの人生を存分に楽しんだらいいのでしょうね。
どんな状況がやってこようと、それを心から楽しむことができるはずです。もしもとても楽しめないという状況がやってきたら、それ自体を楽しめばいいのですから。