子供の頃に、数人の友達たちと何かについて自分なりの意見や思いを言い合っていたときに、ふと気づいたことがありました。
ああでもない、こうでもない、自分が正しくて、君の考えは間違っている、等々。でも結局、何も言わずに黙っているのが一番優れていると…。
あらゆる考えを考え尽くしたところで、実は何も考えずにいることこそが最強(他に言葉が見つからなかったので)なんだと思えたのです。
それこそが、「無」なんじゃないだろうかと。今になって思えば、それはただ思考の外にいること、それが「無」ということだと分かります。
「無」とは単に何もない、ということではなくて、あらゆる思考の外に出ることだったのですね。思考自体が、みずからの限界を知るということでもあります。
私たちは、思考の中でゲームを楽しんでいるに過ぎません。それを真実だと勘違いしてしまっているだけなのですね。
思考そのものは現実の中にあるのかもしれませんが、思考の中身は実在ではありません。だからこそ、子供のころに思考の外側が最強だと感じたのです。
思考の外側が「無」であるというのも、真実ではありません。「無」とは、思考が作り出した概念、観念でしかないからです。
思考の外側とは、思考が到達することのできない領域としか言いようがありません。でも、私たちは誰もがそれを知っています。
なぜなら、私たち自身の本質こそが「それ」だからです。勿論、こういったことも思考の中で繰り広げられていることではありますが、それでももっとも今にいられる思考です。
どうせ思考の中にいるのなら、過去や未来を操って自己防衛しようとする思考よりも、今この瞬間にいられる思考を楽しむほうがどれだけ心安らかでいられるか。
試してみればすぐに分かりますね。そして、本当に今この瞬間であるなら、それが思考の外である純粋な意識なのです。