私たちはみな自分固有の好みというものを持っていますね。食べ物にしても、色や服や、他人の外見などについても同じです。
「好き」とか「好み」とか、「好ましい」などという表現を使いますが、それは要するに自分にとってすんなりと受け入れられるものだということです。
けれども、その反対に「好きではない」もの、「好みではない」、「好ましくない」と感じる対象もあります。その感覚がより積極的になったときに、「嫌い」と表現するかもしれません。
日常的には「好きではない」ということと、「嫌い」ということを混同して使っているかもしれませんが、よく見つめてみるとそこには大きな違いがあることが分かります。
「嫌い」には明確な拒絶があるということです。「いやだ」という感覚が含まれているのですが、一方「好きではない」には拒絶はありません。
私たちにとって、「嫌い」に含まれる拒絶こそが苦しみの原因となるのです。同じように扱われる「好きではない」には、そういう意味で苦しみがありません。
何かが、自分にとって「好ましい」ものであろうと、「好ましくない」ものであろうと、本当にどちらでも構わないのです。本質的には何の違いもありません。
それは持って生まれた個性によって作られる反応でしかないからです。しかし、「嫌い」となると話しはまったく異なってきます。
拒絶感は、決して生まれつきの個性からやってくることはないのです。それは、生後なんらかの体験を通して作り出されるものなのです。
生まれたときから、トマトが好みではない人にとって、なんらかの自己犠牲を強いられない限り、それは単に「好みではない」というままで居続けられるのです。
けれども、もしもそこに例えば無理やり食べさせられたとか、食べない自分に自己嫌悪を感じたといった自己犠牲がからんできてしまうと、トマトを「嫌い」になってしまうのです。
この二つの違いの大きな隔たりに気づくことです。自分の中に、生後作り出してしまった拒絶があるときにのみ、人は苦悩を抱えることになるのです。
なぜなら、「嫌い」なものはいくら拒絶しても、思い通りには決してならないのが人生だからです。それが苦しみのもとなのです。
もしも、あなたの心の中にある拒絶に気づいたなら、それをとことん見つめてみることです。そうすることによって、単なる「好きではない」に戻せるかもしれません。