「自己防衛システム」の本性

私がいつもセッションでお伝えしている、「自己防衛システム」について、今日はさらに少し詳細な説明をしてみたいと思います。

3歳前後に芽生えた自我は、動物として生まれながらに持っている防衛本能を利用して、精神的に自分を守ろうとする「自己防衛システム」を作っていくのです。

自分の命を守ろうとするという意味においては、防衛本能と同じなのですが、違う点はそこに思考が介入するということです。

ということは、例えばお腹が空いたときにワンワン泣くという場合には、その「自己防衛システム」が使われることはありません。

なぜなら、そのような場面における恐怖は、ほとんど理屈ぬきの恐怖だからです。思考を介入しない文句なしの恐怖の回避に使われるのは、防衛本能なのです。

それに対して、幼子が作り出し始める「自己防衛システム」は、もっと明確な恐怖からの防衛のために使われるのです。

それは、周りの大人から嫌われて見捨てられないようにするということ。否定されて無視されたら、幼子は一人ぼっちでは生きていけないからです。

愛されたいというよりも、自分の思いが相手に伝わってそれを受け入れてもらうためには、自分を嫌われないようにしなければならないということです。

そのためには、考えうる限りのあらゆる防衛の作戦を生み出して実践していくのです。そして、その多くの戦略は残念ながらその瞬間だけの効果しか期待できません。

所詮は、幼い子供が考え出す方法なので、人生レベルで有利に働かそうなどという発想も持ち合わせていないからです。

そればかりか、結果としてそうした「自己防衛システム」が稼動すればするほど、それに比例した自己犠牲が蓄積されることになり、自分で自分を傷つけ苦しめることとなってしまうのです。

毎日自分がやっている見捨てられないための「自己防衛システム」の手口を、しっかり見極めることです。それなしでは、それを静かにさせることはできません。

そして、大人の自分は誰かに見捨てられるなどということは不可能なのだと、はっきり気づくことも大切なことですね。

セッションという貴重な時間

セラピストの仕事をするようになって、いわゆる心理療法なるセッションを実に6000回以上も行ってきました。

毎日淡々とこなしていれば、あっという間にそのくらいにはなってしまうわけで、別に驚くには値しないのですが、セッションというのは本当に不思議な空間なのです。

というのも、初回であれば互いにまったく見ず知らず同志であるのに、誰も入ってはこない密室でいきなりとても深い話しをするわけです。

この話しは世間ではタブーでしょうと思われるようなことや、一般的には恥ずかしくてとても言えないようなことを話題にすることもあります。

あるいは、不思議な非科学的なことや、いわゆるスピリチュアル的なことだったり、ごく普通の感性からしたらちょっとおかしいんじゃないの、と思われるようなことでも会話の中に入ってきます。

それがとても心地いいのです。ルールから外れるということは、なんて清々しい感じがするのでしょうね。

私が大好きな話題の一つに、「自分は本当にどこにいるのか」というのをまじめに見てもらうというのがあります。

多くのクライアントさんは、最終的には自分はどこにいるのか分からない、どこにもいない、などというような表現をして下さいます。

真実というのは、これ以上ないというくらいに身近なところに何気なく晒されているのですね。あまりにも、当たり前過ぎて理解を拒絶されてしまうのです。

スポーツクラブのサウナで毎日お会いするおじちゃま連中には、決してそんな話しはできませんので、セッションがいかに自分にとって貴重な時間なのかが分かります。

本当の癒しとは、真実を見るということなのです。どんな理屈も、どんな価値判断も通用しない純粋な気づきの領域なのですね。

人が真に成熟するとは

人が成熟していくということは、何かの経験を深めることでもなく、何かの結果を残すことでもありません。多くの知識を身につけることでもないのです。

それは、自己防衛を減らしていくということであり、それは自分の幸せを追求することではありません。自分が幸福かどうかと考える自己が希薄になることです。

守るべき自分への関心が薄れていくこと、あるいは真の自己への信頼が深まり、守るべき自分というものが本当はないということに気づいていくことです。

そのための決まった道があるわけではありません。何かの画一的な方法が用意されているわけでもないのです。

それは人の個性が千差万別であるのと同じように、人によって歩む道はまったく異なっていいのです。

ある人は芸術を通して、ある人は戦争などの混乱の世を体験することで、またある人は誰かに帰依することで、また奉仕活動によっても無私への道が開かれているのです。

また、最近ではそうした道を見出すよりも先に、いきなり自己の本質に目覚めてしまうということもあるかもしれません。

一方で自分の中にある立派なエゴを認識しながらも、自己の本質に気づきつつ生活が続いていくということもあるのです。

それは、歴史の中でも人類が初めて経験する貴重な時期にさしかかっているのかもしれません。すばらしいチャンスの時代に生まれたことを感謝したいですね。

死の恐怖はホンモノではない

最近では、このブログを書いてから歯を磨いたりして寝る準備をするのが慣例のようになっています。実際に布団にくるまるのは、それから少し後になるのですが。

それにしても、布団に入っていつも感じるのは、寝るのが本当に好きだなあ!ということです。いろいろその理由を考えてみるのですが、とにかく眠りに落ちることが楽しいなのです。

それは言葉を変えれば、意識を失う状態になるということを好んでいるということです。自分がいなくなる状態が好きということですね。

どうも後ろ向きな感じは否めないのですが、こればかりは仕方がありません。ところで、自分がいなくなるという点においては、眠ることと死ぬことに何の違いもありません。

それなのに、なぜ死ぬことだけが恐怖と結びついてしまうのでしょうか?自分がいるという状態に戻ってこれないということが、なぜそれほど怖いのか、これも謎です。

死ぬことが怖いからといって、じゃあずっと死なないままで何千年も生き続けなければならないとしたら、それはもう地獄の苦しみだろうと思うのです。

結局、死の恐怖というのが本物なのかどうかが怪しくなってきます。もしもそれがニセモノであるとしたら、恐怖そのものがまがいものであるということになるはずです。

死ぬことがどれほど怖くても、死んでしまったらどこにも恐怖など残ってはいないということも皮肉なことですが事実ですね。

死が忌み嫌うべきものだという洗脳をしっかり見つめて、恐怖が本物ではないということを見抜くとき、今度は私たちの本質に死はないということに気づくのではないかと思います。

その人の内面が人生の色合いを決める

ご本人を見ていると、その人の歴史を知らなくてもどんな人生を生きてこられたのかということが何となく分かるものですね。

その人の生き方や決め事などが、その人の人生の色合いを決めているのだと思います。経済的に豊かかどうかということや、多くの人に囲まれているかどうかなども深い関連があるのです。

本人が自分のことをどう見ているのか、どう評価しているのかということも強く影響します。身の丈に合わない事態になったとしても、そうしたことはそれほど長続きしないものです。

結局は、落ち着くところに落ち着くということです。私は、経済的に恵まれていた時期もあったのですが、今はその反対の状態に近づいています。

けれども、どちらにしてもそれほどの違いを感じずにいます。どれもこれも、間違いなく自分の内面にふさわしい人生がやってきていると実感できます。

面白いもので、どんな状況がやってきたにしても、これが自分の人生なの?と驚いたことは一度もありません。妥当な感じがいつもしています。

このことは、人生に満足していない人にとって朗報ですね。自分の人生を変えたければ、自分の信念や自己像などを根底から変えてしまえばいいのです。

間違いなく、それに見合った人生が必ずやってきてくれます。人生というのは、もともとがその人の心の内面をそのまま表しているだけなのですから。

思考を休めて、「何もなさ」の中で憩う

心理的自己防衛というのは、具体的に言えば「過去の経験から学んだことを基にして、来るべき未来に備えよう」とすることです。

動物全般が持っている防衛本能とは一線を画しています。なぜなら、防衛本能は、その瞬間、まさに今危険かどうかが鍵なのに対して、心理的自己防衛は過去と未来においての話しだからです。

そして、過去と未来ということは、まさに思考の範疇であるというわけです。人間だけが日夜励んでいる心理的自己防衛とは、そういうものなのです。

ということから、非常に大切なことを知ることができます。それは、苦しみの根源である心理的自己防衛を緩めていくためには、思考を緩めていけばいいということが分かります。

思考が緩むか、停止してしまえば、私たちに過去も未来もなくなるばかりか、守るべき「自分」という思考の産物さえもなくなってしまいます。

心理的自己防衛が、抑圧して見ないように仕向ける否定的な感情にしても、それを作り出すのは思考なのです。

したがって、思考の外にいることさえできれば、そうした都合の悪い感情からも開放されることができるのです。

オーバーな表現をすれば、日本中の人たちが、あるいは世界中の大勢の人々が、自分の思考にとらわれないようになったら、世界は大きく変わってしまうでしょうね。

私自身も含めて、一人でも多くの人たちが、過去と未来ばかりにエネルギーを費やす思考を時々休めて、「何もなさ」の中で憩うことを覚えたら、暖かな思いやりの気持ちが巷にあふれるようになると思います。

心の「やじろうべい」

以前、キアヌ・リーブスという俳優さんが、何かの番組でインタビューを受けて答えていたのですが、彼は日曜日から金曜日までは食事制限をしているということでした。

それは勿論、俳優としての職業柄、引き締まった身体を保つ必要があるからですね。けれども、土曜日だけは好きなものを好きなだけ食べるようにしているとのことでした。

あまりに、自分に厳しくし過ぎてしまうと、節制が続かずにどこかで爆発してしまうからなのだと言っていました。

つまり、過度になりすぎずに、バランスを保つことが継続するコツだということですね。お金が乏しいからと、節約し過ぎて大好きなスイーツを長い間絶ってしまうと、理性を破ってがむしゃらに食べてしまうということが起きるのと同じです。

アンバランスになっていることで、自己治癒力が働いて自動的に反対方向へと向かわすことになるわけです。

それは、傾いていた「やじろうべい」の手を離せば、反動でもう一方の方へと傾いてしまうのに似ています。そうやって、「やじろうべい」が平衡を保つようになるためには、何度も左右に傾かなければならないのです。

こうしたことは、人生レベルでも起きています。つまり、幼い頃に作り出した自己防衛システムが度を越えて強力に作用すればするほど、無防備さ(無邪気さ)とのバランスが崩れてしまい、あるとき一瞬にして反転してしまうということが起きるのです。

その反転こそが、身体の病気であったり、うつ症状であったりするわけです。反転の周期は人それぞれで、数日で入れ替わる場合から、数年の場合もあります。

あなたの心の「やじろうべい」はバランスがとれていますか?日ごろからしっかり確認しておくことがとても大切です。

そのためには、ずっと支配されつづけてきた精神的自己防衛を見張り、その策略を見抜いて、それを緩める選択肢を見出すことです。

心の中にあるたくさんの隠し事

日ごろから、自分の心の中に浮かんできた感情なり想いなりをよくよく見てみるというクセがあります。それがいいものでもいやなものでも。

ついさきほども、ちょっとコワメの感情が出てきました。それは、自分は所詮独りぼっちかもしれないという想いです。

この真っ暗な宇宙空間の中で、自分独りがただ居なければならないというようなものです。自分の感覚では、これはかなり幼い頃に感じていたものだという気がします。

結局それはちょっと出てきただけで、最後まで見切ることはできませんでした。きっと都合が悪いものなので、深い部分で隠してしまうのでしょうね。

小学生のころに、死んだらどうなるんだろうというのがやってきたときに、本当に心が凍りつくような恐怖を感じて、顔面から血の気が引いたことがありました。

これも、ほんの数分くらいのうちに分からなくなってしまったことを覚えています。子供の頃というのは、そうやって自然と不快な感情を感じないようにしてしまうということを繰り返しやってきたんでしょうね。

そうやって隠してきたものが、何かの拍子にふと顔を出すことがあるのですね。あ、見つけたと思って注意深く見てみようとしても、またすぐに隠れてしまうのです。

実はそうした否定的な感情だけでなくて、心が温まるような愛?の感情も突然出てくることがありますが、これもまた長続きしてくれません。

きっと、自己防衛のシステムからすると、そうしたものさえも都合が悪いものだという判断がなされてしまうからかもしれません。

まだまだ自分の心には、隠し事がたくさんあるようです。それもまた、おつなものかもしれません。

真に成熟するとは?

私たちは人間として生まれて、当たり前のように大人の人間へと成長していきますが、実は人が人になるのには条件があるのです。

それは、物理的に人間として生まれて、大人の人間に育てられるということが必要なのです。ただ、人間として生まれても自我を持った人間に育てられなければ、一人前の人間にはなれません。

そのことは、狼に育てられた少年の事例を思い出せば明らかです。私の知っている例では、彼は背骨が曲がってしまっていてしっかりと直立して歩くことすらできない状態で発見されています。

教育を受けさせようとして試行錯誤しますが、彼は単純な言葉を発するようにはなるものの、その年齢の子供のようにはなることができませんでした。

人間として生まれたということは、単に一人の人物への成長する潜在能力を持っているということしか言えないのです。

幼児は、自然に親や周りの大人たちが話している言葉を理解し、自分も話せるようになっていきますが、それと同じようにして自分がここにいるという認識(自我)が芽生えるのです。

人間以外の何かに育てられたなら、自我は育ち様がないわけです。つまり、私たちは周囲に教わりながら、あるいは洗脳させられることで、一人の人間となっていくのです。

生まれながらに、人間であるわけでは本当はありません。つまり、作られたものだということに気づくことです。立派な人間になるための代償はあまりにも大きいものでした。

そうであるなら、作られる前の本来の自己、ただあるがままの自己に気づくことも可能なのではないでしょうか?オリジナルはそのままに在るからです。

その本質に気づくことこそ、一度人間として生きて苦しみぬいた我々が真に成熟することなのだろうと思うのです。

対立のない世界

恥ずかしい話しなのですが、中学一年生くらいまで、自分は朝起きて顔も洗わず歯も磨かず、髪は寝起きのままで学校へ行っていました。

着るものを気にするということもほとんどなかったのです。それが、年頃になって色気づいてきたと同時に、生活が変わりました。

週一回くらいしか洗わなかった髪は毎日シャンプーするようになり、ズボンプレッサーなるものを買ってもらって、毎晩寝てる間に制服のズボンに折り目をつけるようになったのです。

異性からどうみられるのかということが、急激に気になり出したというわけですね。それ以降、他人の視線が気になるということがなくなることはありませんでした。

ただ、一度だけ中学三年生のときに、理由は忘れたのですが髪をスポーツ刈りにしたことがあったのですが、そのときはものすごく楽でした。髪型を気にせずにいられたからでしょうね。

大学生になって自由を謳歌し出したころには、長髪になってポニーテールにできるくらいまで伸ばしていたこともあります。

また、人の視線を避けるために、一番濃い色の度付きサングラスを作って、それで生活していたこともあります。これは、電車に乗ったときなど非常に心地よかったのです。

相手からは自分の目が見えないために、当時感じていた軽い視線恐怖を感じずにいられたからです。これも、人からどうみられるかを気にすることから起きるものですね。

誰だって他人からどう見られているのかということが大なり小なり気になるものです。けれども、これは単に精神的自己防衛の結果なのです。

これを克服しようとするのではなく、感じる恐れをしっかりと見てあげることで、視線恐怖は激減してしまいます。

さらに、視線を内側に向けることで自分の本顔である、「何もなさ」に気づくことができれば、もっと他人からの視線に対する恐れが小さくなっていくのです。

相手の視線の先にあるものは、本当の自己ではないと分かるからですね。それは対立のない世界へと誘ってくれるのです。