原点に立ち返る

毎日の生活に忙殺されて、なんとなく落ち着いた気持ちになれなくなってしまっていたり、日々起こることに翻弄されてしまうこともありますね。

そういうときには、原点に戻ることがとても有効です。私の場合には、どうするかというと、「自分は今どこにいるのか?」という質問から始めます。

本当に具体的にどこにいるのかを見つめるのです。感覚としては身体の中にいるように思うかもしれません。

もしも、頭の中にいるように感じるなら、その頭の中をかち割ってそこを解剖学的に想像してみるのです。そして、本当にその中に自分が潜んでいるのかどうかを検証します。

そして、いつものようにやっぱりそんなところに自分はいないということが明確になります。それでは、一体自分はどこにいるのか?

もし、身体の近くにいるのだとしたら、その大きさは?形は?ここまでが自分でここから先は外部という境界を見つけることができるのか?

どこをどう探してもそんな境界は見つけることができません。ということは、自分には大きさも形も色も、そして位置さえもないということになります。

その瞬間、自分の意識が無限大に拡大した状態になっていることに気づくことができます。この感覚は誰にでもあるはずのものですが、それを否定する防衛システムに負けていると気づけなくなるのです。

目を閉じていようが開けていようが、自分の気づきは全体性だということに気づくことができます。それが「無」であり、何も知らないという感覚です。

ここまでくれば、日常的に心を奪われた状態から、正常な気づきの状態へと戻ることができます。それが本当に落ち着くということですね。

いつでもどこでも簡単に検証することができるので、とても便利ですから是非試してみてください。

自我と心理的自己防衛

私という人物がここにいるという思いと、自分のことを守りたいという思いとはほとんど一つのものであると考えて差し支えありません。

その二つの思いを切り離して、別々に持ち続けることができないからです。この二つの思いが合わさったものを一般的に自我(エゴ)と呼びます。

人間の成長過程の中の幼少期に、まず初めに「これが自分なんだ」という思いが生まれることになるのです。

ほかの動物と人間との一番の違いはこの点にあります。ほかのいかなる動物も、「自分」という明確な思いを持っていません。

もしかしたら、ボンヤリとしたものを持っている高等動物がいるかもしれないということを否定する必要もありません。本人に聞いて見なければ実際のところはわからないわけですから。

けれども、我々人間のような自我を持っている動物がいないことは明白です。なぜなら、人間のような心理的自己防衛をする動物がいないからです。

生物としての本能的な防衛と人間だけが行う心理的防衛がいかに異なるものかを理解すれば、人間の自我が特別だということがはっきりします。

その心理的自己防衛の真の目的は、本当の自分の姿のことを忘れ、それから遠ざかったままでいるということです。

勿論表立った目的は、人物としての自分の命を守るということに見えるのですが、それは本当の自分を騙し、自我を存続させるために過ぎません。

だからこそ、私たちは本当の自己の姿が常に目の前より近くにあるのに、それを認めようとしないのです。

この自分のことを守りたいという心理的自己防衛が、それ自体のカラクリを本人に隠そうとすることを見れば、それが如何に真理とは正反対のものであるかがわかります。

嘘は嘘でかためておかなければ、すぐにその本性がばれてしまい、あっという間に消えていってしまうからです。

自分という自我も、それを守ろうとする心理的自己防衛もそういうものだということにはっきりと気づくことです。そうすれば、人は苦しみから解放されるのですから。

本当の自己の体験したいこと?

昨年末のオフィスの引っ越しで、相当な出費がありました。ある程度は予想していたのですが、それでも元々が財政難のための引っ越しだったわけで。したがって、なかなか辛いものがあります。

それがまたここへきて、どんどんお金が外へと流れ出て行っているように感じるのです。そこには勿論自分でも自覚している自分の行動にも原因があるのです。

それでも、そうしたことも何となく責任逃れをするつもりではないのですが、何かの力が働いているように感じてしまいます。

なんだか、所持金ゼロへの道を真っしぐらに突き進まされているように思うのです。必要に応じてそれなりにコストがかかるのは仕方のないことです。

けれども、そうしたことが沢山重なってくると、どうも天の方を見て、あの~って恨めしく言いたくもなってしまいます。

10分くらい前に、10年くらいだましだまし使ってきたパソコンのハードウェアがどうも壊れてしまったらしいことに気がついてしまいました。なので、タイピングし辛い ipad で今書いています。

そろそろ新しいパソコンが欲しいなとは思っていたものの、この時期いろいろ物入りなのでもう少し様子を見ようと思っていた矢先のことです。

下取り車の方が高価だった新顔のクルマにカーナビをつけようと思ったら、予想をはるかに上回る出費になりそうだし。

ここのところ、スマホで通話することが著しく増えて、その通話料も心配だし、何もかもがドンドン自分の懐から流れ出て行くように見えるのです。

この経済的不安感は、ときどきやってくるのですが、その度にじっくりと見てあげることで、あっという間に消えてしまうということも知っています。

それがなかったら、なかなか大変だっただろうなと人ごとのように感慨深いのです。さて、今年の自分からはどれだけのものが奪われていくのか、じっくり眺めることにしようと思います。

それが、本当の自己の体験したいことであれば。

「傷ついてもいい」は最強

つい最近のことですが、6年間お世話になった愛車に別れを告げて、代わりに新入りのクルマが私のところにやってきました。

別れたばかりのクルマは、とても図体が大きくて、自分では動く応接間だと思っていました。眺めもいいし、自然とハンドルを握る自分の気持ちもゆったりとするのでした。

それに比べて、今度のクルマはものすごく極端に寸の短いクルマで、駐車場のスペースの半分くらいしか占有しません。

それはそれはとっても可愛い、まるで子犬のようなフォルムなのです。けれども、どうも今までのようなゆったりした気持ちでは運転できないのです。

つい先ほども体験したのですが、どうも周りのドライバーさんたちから若干舐められているような感じがするのです。それも結構頻繁に。

たとえば、一般的にいって、狭い道路で向こうから大きなクルマが来たと思ったら、ちょっとアクセルを緩めるのが人情というものです。

けれども、逆に子犬のような奴がやってきたら気にせずそのまま向かっていくのでしょうね。おちびチャンは止まってな!という感じなのでしょう。

こうなると、今までのように無防備に運転するわけには行かなくなったのです。周りを気にして、オーバーにいえばビクビクしながら運転しなければならないのです。

以前学生のときに引越しのためにトラックのレンタカーを借りて運転したことがあったのですが、かなり強引な割り込みをしても周りが譲ってくれるのを感じましたね。

トラックなんて、少しぐらい擦ったってどうってことないわけですから。悠々たるものです。やはり、少しぐらい傷ついてもいいというのは最強なのですね。

一方、「傷つきたくない」は、自分を苦しめることになってしまいます。子犬のようなクルマだとしても、傷ついてもいいという気持ちになって、悠々と運転したいものですね。

強靭な防衛システム

私たちが3歳くらいから作り出した自己防衛システムは、ネガティブな感情を見ないように仕向けてくるので、それが成功すればするほど感情を蓄積することになります。

こともあろうに、実は自己防衛システムの原動力は、その溜め込んだ感情というエネルギーであるから始末が悪いのです。

つまり、一度作りこんだ防衛システムというのは、それを使い続ければそれだけ自己増殖するようにできているということです。

その結果、本当は必要ではない場面であろうとも、とにかく防衛システムをそれ自体が稼動させたがるために、過剰防衛をすることになってしまうのです。

そしてそれがまた、防衛システムを強大なものへと進化させていくことになるのです。もうお分かりだと思いますが、幼いころに作り出した防衛システムは手に負えないのです。

防衛システムの本当の目的は、恐ろしいことにその防衛システムを存続させることになってしまうのです。決して自分を守るということが目的ではないのです。

けれども、そのことを本人が気づけないようにと用意周到なやり方がなされるのです。つまり、自分が防衛していることに気づくことができないようにさせられてしまうのです。

こうして書いてみると、向かうところ敵なしの磐石なシステムのように見えますね。しかし、本当のところはどうかと言えば、決定的な弱点も持っています。

それは、一度気づかれて化けの皮が剥がれてしまえば、意外に脆いものでもあるのです。そして、もしも心が無私の状態になったなら、それは使われなくなる運命にあるのです。

みなさんは、自分の防衛システムにどのくらい気づいていますか?そして、それをいつまでどのくらい稼動させたいと思っているのでしょうか?改めて、自分自身に問いかけてみてください。

思考に使われるのではなく、それを活用する側になる

思考に巻き込まれている人の話しというのは、どんなことがあったとか、こういうことが起きていやな思いをしたなどという物語の内容が中心となります。

その物語の中で、自分がどんな気持ちになったのか、どういう被害を蒙ったのかなどということが延々と語られるのです。

それに対して、思考そのものを見ることができる人は、どんなことがあったという物語そのものに話題の中心が向くということがないのです。

それよりも、そういう物語を見ている自分に気づいているのです。思考と物語はそのまま対応関係にあると言ってもいいくらいです。

思考そのものを見る側にいる人は、物事が起こっている地上に目が行く代わりに、地面の下の見えない部分に意識を向けることができるのです。

奥深くでは何が起きているのかという視点とも言えるかもしれません。表面的な出来事に右往左往するのではなくて、その大元に目がいくということです。

そうなると、視点が定まり、あれこれと動揺することが少なくなってくるのです。思考の働きが緩んできて、大きな全体を把握しているような感覚になりますね。

自分が理解している何もかもが思考の中でのことだったと分かって、そのことを認めることができれば、さらに心は穏やかに落ち着いてくるのです。

そうなれば、もう思考を恐れることはありません。思考は便利なただのツールとなるのです。思考に使われるのではなく、それを活用する側になるのです。

そうなったら、思考はもう自分の邪魔をすることもなくなります。思考から開放されれば、あらゆることが自分の味方に感じられるはずです。

自分の本質に気づかないなんて勿体無い

私たちの本質が、思考では決して認識できないもの、理解を遥かに越えているものだということ、このことに気づかずに死んでいくのは何としても勿体無いのです。

もちろん、これは気づくことが正しくて気づかないことが正しくないということではありませんし、気づくことと気づかないことに何の優劣もありません。

なぜなら、私たちは「それ」ではなかったためしがないからです。最初(というのもないのですが)からずっと「それ」であり、これからも永遠に「それ」なのです。

ですから、そのことに気づこうが気づかないでいようが、そんなことは本質的にはどうでもいいことだとも言えるのです。

けれども、実質的なことを見てみると、自分の本質に気づいている人はそうでない人よりも多くの点で有利なのです。

たとえば、どんなときでも深刻になり過ぎてしまうということがなくなります。深刻になったとしても、きっとほんの短い間でしかありません。

ずっと深刻さを持ち続けるなどということは不可能なことになるのです。なぜなら、私たちの本質である「それ」は、決して傷つくこともないし、生まれることも死ぬこともないからです。

そのことに深く信頼することができればそれだけ、自己防衛は確実に減っていくことになるはずです。防衛しようとする自分を冷静に見つめることもできるようになっていくはずです。

そのことによって、苦しみから解放されるようになるのです。やってくる痛みから逃げなくなれば、その痛みはいずれは去っていき、今度は喜びがやってくるのです。

個人として生きる限りは、エゴはなくならないでしょうけれど、そのエゴをやさしい眼差しで見つめることができれば、人生は面白い物語となるはずです。

静かな恍惚の中で寛ぐ

自分の本質である純粋な意識に注意を向けて、言葉にはできない「それ」を心の限りに信頼することです。

「それ」は必ずその信頼に応えてくれます。どのようにして応えてくれるのかは、私たちの想像を遥かに超えているので形容することは不可能です。

それでも、確実に「それ」は応えてくれるのです。物理的な現象のレベルであろうと、肉体的な問題であろうと、精神的なことであってもです。

自分の都合のいいようにやってくれるということではありません。ただただ、人間業ではないだろうということだけは、知ることができます。

そのことを「奇跡」と呼んでもいいかもしれません。そしてその「奇跡」には限度がありません。それは畏敬の念を呼び起こすかもしれません。

それが私たちの本質であるということは、なんと言う奇跡なのでしょう。思考の手の届かないところ、理解できない未知の領域からこの宇宙が毎瞬創造され続けているのです。

私たちにできることは、それをただ喜び、驚き、それによって満たされることです。それ以外に何ができるでしょう。

静かな恍惚の中で、ゆっくりと寛いでいられることに深く感謝せずにいられません。

分離不安と全体性

何度も繰り返しお伝えしているとおり、私たちの本質は全体性であり、したがって生まれてからしばらくの間はその状態のまま生きているのです。

けれども、人間だけが3歳前後になると、親からの分離を意識するようになり、結果としてそこから個体としての自分に目覚めることになるのです。

その過程で感じる不安のことを分離不安と呼びます。全体から個体へとうまく自分を騙して推移できると、立派な個人への道が待っています。

しかし、本人の生まれ持った気質や、安心できない環境などの理由によって、分離を認められずに成長していくケースもあるのです。

つまり、分離すると錯覚することの恐怖が大きすぎて、それを認めることができないのですが、その奥ではやはりここに自分がいるという分離した個人でもあるのです。

この中途半端な状態が、その後の本人を苦しめることになります。心の中はどうなっているのかというと、全体性をどこかで忘れずにいて、それとは別に個人であり、かつそれを認めたくないという曖昧な状態なのです。

分離してしまっているということをどこかであきらめつつ、それはあまりにも恐ろしいのでそれを認めずにいるという葛藤です。

そのために、大人になってもフワフワとした精神状態が続き、場合によっては自分から抜けてしまっている状態、つまりグラウンディングができてない状態のままでいることもあります。

癒しの順序としては、まず忘れずにいる全体性の感覚を一度脇へ置いて、分離の恐怖をしっかり見ることです。そうやって、恐怖を小さくすることができれば、個人としての自分の居場所が明確になります。

その上で、忘れずにいたあの全体性の感覚をしっかりと思い出すことです。はっきりとした個人としての意識と全体性を同時に感じることで、人生の捉え方が大きく変化するはずです。

純粋な気づきへの100%の信頼

ゆったりと寛いで思考の働きを徐々に緩めていくと、ただ在るということだけになっていきます。それは精神的な活動が激しいと、すぐに隠されてしまう精妙なものなのです。

急いでいたり、この場を何とかしなければならないと考えていたり、何かに集中していたり、そうしたあらゆる精神活動が邪魔をするのです。

街の喧騒の中では、小さな鈴の音がかき消されてしまうのに似ています。けれども、誰であってもそれを感じることはできるのです。

なぜなら、その静かな気づき、ただ在るというこの感覚は、すべての人に共通のものに違いないからです。

ただ在るという気づき、何かが在るというのではなくて、これ以上シンプルにはなりようのない、ただ在るということ。

そしてその気づき自体が私たちの本質なのですね。何かに気づいている私がいるのではなく、その気づき自身であるということです。

今日一日がどんな日であったとしても、一日のどこかで必ずこのことに意識を向けることを忘れないことです。

個人としての自分は、どうしても目の前の現実に飲み込まれてしまうようにできています。だからこそ、敢えてこの気づき自身である自己を観るようにするのです。

その純粋な気づきへの100%の信頼があれば、どんな物語であってもそれを心から楽しむ余裕ができるはずです。