愛を理解することはできない

私たちには、物事を理解したいという欲求があります。分からないままでは、何だかすっきりしないのです。できるだけ多くのことを把握しておきたいのです。

なぜなら、理解できているものが多ければそれだけ安全だという感覚があるからです。幼い頃は、社会のことやこの世界がどんなものなのかさえ分からないので、それだけで不安なのです。

大人になるに連れて、いろいろなことを理解していくにしたがって、不安も少しずつ払拭していくことになります。

私は幼い頃に、両親に連れられて夜クルマであちこちに一緒に外出させられていたのですが、どこへ行くのかとか、どのくらい遠いところなのかとか、何も分からないので不安でした。

その不安があったから、車酔いもしていたのではないかと思うのです。なぜなら、大人になって出かける目的や、かかる時間や走る道路を知っているだけで、安心するようになったおかげで、車酔いがなくなりました。

それだけ、分かっている、理解できているというのは心の安定には欠かせないものなのだということです。

けれども、今になってようやく気づくことができたのですが、理解できることというのは、あくまでも思考の中でのことだということです。

思考の中で分かったつもりになっているだけで、それは真実からは程遠いものだったのですね。真実なるものとは、決して理解できるようなものではありません。

知覚できないもの、理解することができないものこそ真実であり、そこにこそ本当の愛があるのだと思うのです。