死とは無に帰すること。ただそれだけなのに、なぜ私たちはそれを恐れているのでしょうか?不思議なことだとは思いませんか?
無とは、何もないのですから恐れも勿論ありません。恐れのない状態へ遷移することを恐れているのですから、何とも奇妙な話しなのです。
無でない状態において、無に一番近いと感じるのは深い平安な状態です。苦痛もない代わりに、感動や楽しみもありません。
けれども究極の平安という安らぎには、何とも形容することのできないとても奥深い静寂があるのです。生きていても、それを垣間見ることはできます。
ラマナ・マハルシは、高校生の頃に突然覚醒してしまい、その圧倒的な世界へとのめり込んでしまい、洞穴のなかで身体をねずみに食われても動こうともしませんでした。
勿論彼の場合は、とても稀有なケースではあるのですが、どこかで私たちは死を恐れている以上に、それを望んでいるのです。
死は本当は恐れる対象ではありません。それなのに、これほどまでに死から遠ざかっていようと自己防衛を続けているのは、物語の続きをもう少し見ていたいからです。
子供の頃に、毎週欠かさず見ている大好きなテレビ番組がもう少しで終わってしまうというときに、必ず一週間待てないよ~と心の中で叫んでいたものです。
それと同じことなのですね。自分の人生という物語を、どうしても今この瞬間にはまだ終わらせたくないという欲望がるのですが、これが死の恐怖なのです。
テレビ番組が無情にも、時間になると終わってしまうのと同じように、神が「その物語はもう終わりですよ」と言われる、そのときが死なのです。
それはただ無に帰するだけなのですから、そのときは潔くただ観念するようにしたいものですね。そして、常日頃から死を恐れる自分をしっかりと正面から見つめることです。
そうすれば、過剰な自己防衛が減って、無防備な心の特徴である何とも言えない清々しい安らぎの中で生きていくことができるのです。