私たちが突き動かされる原動力は、愛か恐怖のどちらかしかありません。先に言ってしまうと、残念ながらほとんどが恐怖であると思われます。
たとえば、ピアノをもっと上手に弾けるようになりたいと思って、一生懸命練習するとき、親に褒められたいとか、みんなにすごいねと言って欲しいなら、それは恐怖が原動力です。
一方、あの曲が弾けるようになったら楽しいだろうなという、純粋な気持ちで練習に励むのであれば、それは愛が原動力であると言えると思います。
愛か恐怖かがいまいち分かりづらいのは、大抵がその双方を持っているからです。多くの場合、最初に愛があって、そのうちに恐怖がそれに取って代わって原動力となってしまうのです。
誰だって人から否定されるよりも、肯定されたいのが本音でしょう。けれども、否定されることが死に匹敵するくらいの恐怖として心の奥で感じているとしたら、肯定されようとして必死で頑張ることになってしまいます。
誰からも愛されようとすれば、すべての人が好む最大公約数を達成するような人物になろうとしてしまうはずです。
自分を向上させようとする原動力が、愛への嘆願である恐怖であると、それは決して達成することのできない不可能性がそこにあることに気づかねばなりません。
それは、たとえて言えばどんなに雲が頑張ろうとも、青空になることができないのと同じことなのです。この場合、青空は愛であり、その愛を覆い隠している張本人が雲だからです。
雲が消えていくことでしか、愛である青空が広がることはありません。そのことにしっかり気づく必要があります。
恐怖が原動力であれば、その結果は何万年経っても愛へと変わることはないということです。
自分が突き動かされている原動力が恐怖なのかどうかを、しっかり見極めることができなければ、それをやめていくことはできません。
そしてもしも、そのことに気づくことができたのなら、敢えてそれを止めようとするよりも、そういう自分を愛の目で見守ってあげることです。
必ず、執着を手放す時期はいずれ向こうからやってきてくれるのですから。