これまでにも、何度もこのブログでもお伝えしてきたことですが、自己表現を抑える三つの要素があるというお話しです。
それは、「恐怖」と「自己否定(罪悪感)」と「可哀想という思い」です。この三つのそれぞれが単独であることもありますが、どちらかというとそれは稀なことです。
逆に、これらの要素が密接に重なり合っている場合の方が、圧倒的に多いといえます。セラピストの仕事をしていて気づいたのですが、意外なほど多いのが親などに男の子を期待されているのに、女の子として産まれてしまったというケースです。
人間というのは不思議なもので、お母さんのお腹の中にいるときから、そうしたことを察知しているとしか思えない場面に、ヒプノなどのセッション中にしばしば出くわします。
そうなると、ただ産まれただけでその女の子はハンデを背負ってしまうのです。つまり、決定的な存在の無価値感です。
これが、先ほどの要素の一つである自己否定あるいは罪悪感として、心の奥底に深く根を張ってしまうことになるのです。
本人には勿論何の罪もないのですが、大切な家族の期待を裏切ってしまっている自分は、それだけで一人前ではないと感じるのですから、生きることが非常に大変なことになってしまいます。
そんな自分を生んで育てなくてはならない両親に対しての申し訳なさと、同時にそんな両親が可哀想であるとの思いがおきるのです。
これが、また三つの要素のうちの一つに該当するわけです。勿論、両親の可哀想さは自分のせいばかりではなくて、全く自分とは無縁の理由によってもそれを感じてしまうケースはいくらでもあります。
こうしたことが重なってしまえば、もうその子供は自由な自己表現などできなくなってしまうのが道理というものです。
その結果は、ご存知の通りの自己犠牲の繰り返しと、その結果の怒りの蓄積が待っています。そして、往々にして絶望もやってくることになる可能性大です。
こうした傾向は、はっきりとした自覚なしに大人になっても継続することになるのです。そして、なんらかの困った現実がやってきます。
つまり、その生き方を修正しなければやっていけないという、警告としての手厳しい現実です。そうして、セラピーなどに行こうと思うようになるのかもしれません。
けれども、そうした現実がきたら、それは大きなチャンスがやってきたということですし、そこから本当のことに気づいていけば、必ず埋もれていた本当の自分にも出会うことができるはずなのです。