理不尽さの先にあるもの

自分が物心ついた頃から、ずっと感じていたことがあるのですが、それはなぜこの世界には理不尽なことが沢山あるのだろうということです。

子供の頃は、複雑なことは勿論分からないわけですから、メインとなる理不尽さとは、なぜ人は誰かがいやがることを平気でするのだろうということでした。

あるいは、なぜ自分はやりたいことをやってはいけないと言われるのだろう、というのもあったと思います。

誰もが互いに笑い合って傷つけることなく、共存することがなぜできないのだろうというのも、疑問としてありました。

それも一種の理不尽さであったと思うのです。そして、大人になると、この世界、この社会における理不尽さというものは、無限にやってくるようになります。

理不尽を感じずに生きることなど、一日たりともできないのです。それを感じるたびに、心の中で怒ってみたり、あきらめてみたりと忙しいのです。

それで分かったのですが、人は物語の中に理不尽さがなければ、興味を示さなくなるということです。理不尽さとは、料理で言えば大切なスパイスのようなものなのです。

ワサビは鼻にツーンとくると、痛みを感じるほどになることがあるし、辛子は汗をいっぱいかいて、死ぬほどのどが渇きます。

そういうことを知っていながら、それらのスパイスがなければ、食事は味気ないつまらないものとなってしまうのですから、不思議なものですね。

ということは、もしも理不尽さを感じる瞬間がやってきたなら、人生の大切なスパイスがやってきてくれたんだと思えばいいわけです。

敗戦後の日本人の心が、自虐史観に捕らわれて、命をかけて日本の未来を守ってくれた英霊たちを侮蔑するようになってしまったことなどは、理不尽さの極致かもしれないと思います。

けれども、それも日本がこれから再生していくという、興味深い物語には欠くことのできない理不尽さというスパイスだと見ればいいのですね。

理不尽さとは、単なる思考の産物です。思考の正しさを脇に置いて、その理不尽さの中にただ入っていくのです。そうすると、耐え難い理不尽さも必ずただの出来事になるのです。

明日、自分のところにやってくる理不尽さを恐れずに、そのスパイスの効いた物語を楽しむだけの心のゆとりを持てるようにしたいものですね。