昨日のつづきです
by osho
お金や権力や名声を探し求めることは、とても道理にかなっているが、光明を探し求めることは、道理に合っていない。もしそうしてしまったら、それはとても深刻な重い旅になるだろう。
だから、宗教的な人々はとても深刻に見えるのだ。宗教的な人々は、誰かが深刻でない限り、彼を宗教的だとは見なさない。深刻さが、宗教的であることとほとんど同意語になってしまった。
悲しく、憂鬱な顔をしていることが宗教的だ。あなたは、聖者が笑っているのを見ることがあるかね?だから、いわゆるインド人の聖者が私に反対する理由だ。
彼らは、光明を得た人がジョークを言えるとは信じられない。彼らには信じられないのだ!
私自身の経験によれば、光明を得た人だけがジョークを言える。
他にどうしようがあるかね?彼は、全てのジョークの中で最大のジョークを見てしまった。彼は、光明を探し求めることの馬鹿馬鹿しさの全容を見てしまった。
人は、探し求めることなしに光明を見いだすが、それは、ある日とても失望する地点がきて、全ての努力を落とすことによってだ。人は正にそのような瞬間に、このことに気が付く。
探し求めることを止めたとき、野望が消えたとき、あなたは自分の在りようとともに取り残される。どこにも行く場所がなく、あなたは内側に居る。内側の旅は、本当は旅ではない。
全ての旅が消えたとき、行くところがどこもなく、行くことへの興味もなく、全ての方向を探したのに、全て失敗してしまった、そのとき ・・・。
どうしようもない失望のうちに、あなたはただ止まる。あなたは、挫折する。しかし、正にその挫折が、変容の瞬間なのだ。どこにもいくところがないので、あなたは内側にいる。
何も探し求めず、探求者だけが残っている。何も捕まえる努力なしに、あなたはふいにその捕まえる人に気付く。どんな対象物にも興味がなかったら、お金にも光明にも神にも興味がなかったら。
主体だけがそこにある。あなたは、我が家に戻ってきた。そうしたら、大笑いがある。何故なら、あなたはいつだってそこにいたからだ。