帰依心について

最近は、テレビ番組をテレビ自体で観るということがほとんどなくなってしまいました。代わりに、ipad で誰かがアップしてくれたものを、自分のタイミングに合わせて観ていま
す。

これがとても便利なのです。自分はとにかく録画も何もせずに、ネット上にアップされているものを検索しては、高解像度で観ることができるのですから。

そのやり方で、さっき久しぶりに「笑っていいとも」のテレフォンショッキングに珍しく北野たけしが出ているのを見かけました。

最後の部分で、次に出演する人と電話で繋ぐ場面で、たけし軍団のうちの一人が電話に出たのですが、二人のやりとりを聞いていて、本当に師匠と弟子の強い絆を感じたのです。

私自身は北野たけしの事を特別何とも思っていないのですが、もしも自分が軍団の一人として、彼を「殿」として慕う立場になったらどうなのだろうと想像してみたのです。

弟子としては、かなり過酷な無理難題なことまでさせられたりするのでしょうけれど、それはそれとして、心がとても安らかになるような感じがしました。

つまり、師匠に対する絶対的な献身の心を持って生きるとき、人は本当に安らかでいられるのではないかと思うのです。

絶対的な存在である神や、完全に信頼することのできる師匠などに帰依する人が数多くいるのは、そうした心の安定を得られるからなのだと思います。

かつての武士は、おのれの親方様のためなら命をかけることができたのでしょう。それがいわゆる武士道の真髄なのですが、それは純粋な帰依心であるとも言えるのです。

私には、心の底から信頼することのできる師匠(グル)がいませんし、これからもそうした人が顕われるとは思えません。

そのことがとても残念で仕方なかったのですが、でも今これを書いていて思ったのですが、目には見えなくても、全体性を感じさせてくれる本質的な自己に帰依すればいいだけだと。

ふとそんな思いが浮かんできました。言葉を変えれば、それが聖霊ということになるんでしょうか?少しじっくりとそのことを見つめてみようと思います。

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