思考の本質とは一体何だろうと考えてみました。なぜかというと、私たちは「私」がここにいるという自覚があって、それを意識だと思い込んでいるからです。
実はそれは、意識ではなくて思考なのです。意識と思考を混同していることにはっきりと気づく必要があるのです。
そのためにも、思考の正体をできるだけ明確にしたいと思ったのです。まず初めに、純粋に単一の状態において思考することは不可能だということに着目します。
なぜなら、思考するためには必ず思考している主体と思考の対象が必要となるからです。ということは、思考とは分割、あるいは分裂を意味するとも言えます。
よく宇宙の本質はワンネスだと言われることがありますが、なにものも分割されていなければ、そこには思考の入り込む余地はありません。
したがって、よりシンプルに表現すれば、主体が対象を認識することこそが思考の始まりなのだと言ってもよさそうです。
だからこそ、思考と知覚は切っても切れない関係があるのですね。ただ、思考には論理性というものが備わっているように見えます。
それは、分割された対象を比べることによって発生するものなのだと思います。比較するということから、論理というものが生まれるのです。
そしてそこには、正しさだとか妥当性というもの、そして善悪や真偽という概念が作られるようになるわけです。
純粋な意識とは言わば何でもそのままを写す鏡のようなものです。鏡は、目の前のものを判断することなく、そのまま、あるがままを映し出します。
けれども、その鏡が粉々に割れて破片の集まりのようになってしまったとしたら、それぞれが勝手な写し方をするようになってしまうはずです。
それが思考なのです。もしも、割れた鏡を何とかして修復して一枚の美しい鏡に戻すことができるなら、もうそこには思考はなくなり、元の意識だけになるはずです。
そこには認識も思考もありません。それが、ただ在るということです。