私たちが認識できるものとは、何らかの対象物なのです。つまり、認識する主体としての自分があり、その向こうに認識されるべき対象があるということです。
認識するとは、対象物そのものを真に知る代わりに、その対象物に関する属性や何らかの情報を手に入れるということです。
その対象物は、自分の外側にある物理的な何かであるかもしれませんし、内面にある思考や感情である場合もあるかもしれません。
いずれにしても、知覚したり味わったりする対象であれば、それらに関して認識することが可能となるのです。
それでは、主体である自分と対象物の距離が近づいて、とうとう一つになってしまったとしたら、一体どういうことになるでしょうか?
それは明らかに、主体である自分にとっての対象物は消滅してしまうことを意味します。あるいは、消滅しないまでも、その存在を認識することはできなくなるということです。
なぜなら、それはもう対象ではなくなってしまうからですね。ただ、自分の外側にある対象物と一つになることは原理的に不可能ですね。
けれども、内面にあるものとは究極的には一つになってしまうことが可能なのです。そのいい例として、感情を見てみることにします。
たとえば、心の中に怒りという感情があるとして、それを一つの感情という対象として認識するのが普通です。
しかし、その怒りの元となる物語(ストーリー)を脇に置いて、ただただその怒りと共に在るようにすることで、その怒りの中に入っていくことが可能です。
そうすると、もうその怒りを一つの対象として認識することができなくなり、その怒りは消滅してしまうのです。これこそが、本当の意味での感情の開放なのです。
向き合いたくないと思っているどんな感情であろうとも、それと一つになるまでただ見るということを実践すれば、その感情は必ず消滅します。
悲しみと一つになったとたんに、悲しくなくなってしまうのです。だから、もう涙が出てこなくなってしまうということです。
いやなものを拒絶すればするほど、その対象は自分にとって大きなものとなるのと正反対に、その対象と一つになることができれば、それはもう恐いものではくなくなり、消滅してしまうか、特になんでもないものとなってしまうのです。
是非、試してみることをお勧めします。