私は子供のころ、内心で大人たちを馬鹿にしているような、クソ生意気なところのある、そういう意味ではあまり可愛げのない男の子でした。
それでも今思えば、やはり考えていることは単純で幼かったのです。自分があまりにも何も知らないので、何でも知らないことのない自分になれたらいいのにと思ったものでした。
勿論、そんなことは無理に決まっているので、その次に考えたのは何でも知っている存在がどこかに一人でもいてくれたなら、それだけでもいいのにと考えたのです。
それがみんなが神と呼んでいるものなのかもしれないと思っていました。大人になって、少しばかりそうした思いが洗練されていったと思います。
それは、究極の真理を知りたいという欲求に変化したのです。この世の中のどんなことでも知りたいというよりは、真理を知りたいというように変わったのですね。
勿論、実際問題そんな絶対的な真理というものがそもそも実在するのかどうかも分かりません。そのことを含めて知りたいという強い思いが出てきました。
そうこうしているうちに、その真理を知りたがっている「この自分」というのは何なのか、ということについての真理も同様にして知りたいのだと気づきました。
そして、とうとうこの自分とは思考(想念)に違いないということ、そしてそのことすら思考での把握に過ぎないということにも気づきました。
結局、自分が理解できることというのは、どこまでいったところで単に思考のレベルでしかないということだと分かったのです。
これが、思考のできる最大限の理解のレベルなのですね。これは甚だ残念なことですが、それを潔く認めるしかありません。
つまり、この自分は決して究極の真実を知ることはできないということだけが、完全に明確になったということです。長年の夢はついえてしまったということです。
逆に言えば、この自分が消えたあとにこそ、すべてが真理に満たされることになるのだろうということです。それまでの間は、せいぜいこの世界での暮らしを楽しめばいいのでしょうね。