私たちは、誰もが一つの人格を持っています。持っているというよりも、その人物のことを自分だと信じ込んでいるわけです。
でもちょっと待って下さい。そこをもう少しじっくり見てみると、その人物が自分なのか、その人物を自分だと信じているのが自分なのか、どっちでしょうか?
私は断言できますが、その人物そのものは私自身ではありません。それを自分だと信じている方が本当の自分なのです。
長いこと生きてきて、それぞれの年齢のときの人物としての自分というものが、確かにいました。彼は何とかこの人生を生き抜いてきました。
けれども、どの年齢の人物であろうと、それをずっと自分だと信じ込んで、それを観続けていた自分も確かにいました。
そして、人物としての自分を観ている側の自分は、人生のあらゆる時期においても、何も変化をしていないのです。
人物としての自分は、幼くて無邪気な頃から始まって、成長するに連れて徐々に大人へと変遷していったのを知っています。
そしてその変化を知っているまさにその自分は、いつもいつも意識があると自覚したころから何も変化していないということが分かります。
もしも、自分を一人の人物だと信じている自分が、その信じ込みを一旦脇へ置いて、あるがままの自分、対象としての自分ではなくて、ただこうして気づいている自分だけを観るなら、それこそが本当の自分なのだろうと思うのです。
この自分とは、「今」を見ている自分であり、「今」に耳を澄ましている自分、そして人物としての自分のことを見続けてきた、その自分なのです。
それは、怒ったり泣いたり、笑ったり感動したり、絶望したり不安にさいなまれたりして、人生に翻弄され続けてきた人物としての自分のことを、ただただ淡々と観続けている自己なのです。
誰であろうと、この自分に気づいているはずです。この自分は何ものなのかを決して説明することなどできないし、謎だらけなのですが、それでもそれはそれ自身を信頼しているようです。
信頼などできない、間抜けな自分を自分だと信じると、滑稽なことになってしまいます。けれども、それはいくら滑稽でも大丈夫、だってそれを観ているのが本来の自分そのものなのですから。