私たちの苦しみのほとんどは、自分には自分固有の自由意志があり、自分の力で自分の人生をコントロールできるはずだという思い込みから来ています。
それを思い込みだなどと言われるだけでも、場合によっては怒りが出てくるくらいに、我々はそのことを固く信じて疑うということを知らないでいる、とも言えるのです。
そのために、敢えてこういう言い方をしてみたいのですが、私たちは神の意志に対して従順ではいられなくなってしまっているということです。
私たちは、自分自身の環境に表現されている神の意志に反対して、もがき続けているのです。勿論、自分の思い通りになることもないわけではありません。
けれども、長期的に見れば、それは不毛な努力でしかなかったと分かるはずです。残念ながら、そこには目をつぶり、気づかないふりをしてしまうのです。
この瞬間、自分に起ることすべての中に雲隠れしている神の目的こそ、私たちは信頼しなければならないのです。
喜びに満ち溢れた瞬間であれ、苦悩に打ちひしがれた絶望の時であれ、どんな状態においても、そこに表れている神の仕業を受け入れることです。
そのためには、何であれ、自分が「何かである」というあらゆる「ふり」を、本当に終わらせなければなりません。
いついかなる瞬間にでも、「何ものでもない」自分をただ観ること、それだけが完全なる明け渡しを意味しています。
それは起きたり起きなかったり、やって来たり去っていったりすることのない、永続的なものなのですね。