距離の制限

あなたの目の前にとても愛しい人がいるとします。その人の何を愛しいと感じるのか、自覚することはできるでしょうか?

その人の笑顔でしょうか、それとも声でしょうか、やさしい手ですか、あるいは暖かな思いやりの心でしょうか?いろいろあるでしょうね。ではそのことをイメージするときに、相手と自分の距離はどのくらいだと思いますか?

今この瞬間の実際の二人の距離ではなくて、愛しいと感じているときの二人の距離のことをイメージしてみてください。

1メートルでしょうか、30センチメートルでしょうか、あるいは5メートルでしょうか?大抵はお互いの顔を見ることができるくらいの数10センチメートルの距離から数メートルまでの範囲だろうと予測できます。

その範囲を超えて近づきすぎてしまうと、相手の皮膚の表面をただ見ることになって、相手であることが分からなくなるし、数メートルを超えて遠くなると愛しさをあまり感じることができないはずです。

仮に100メートル離れたとしたら、顔がようやく見える程度になってしまいます。その距離のままでは、声も届かないし愛しい相手を感じることはもうできなくなってしまいます。

私たちは、そんなようにある一定の距離の範囲内における相手の像をいつも意識して、それに対して愛しさを感じているということです。

そんなことはない、地球の裏側に行っている恋人でもやはり愛しい存在だと言うかもしれませんが、それも愛しさの分かる範囲にいるときのイメージを使って愛しさを感じているに過ぎません。

何が言いたいのかというと、私たちが愛だと感じているものは実は距離と関係があるということです。それは私たちが互いに肉体であるという認識をしている限り、当然のことです。

私たちが「愛」だと思っているものとは、物理的な距離の制約の中だけに存在するものなのです。これが真の愛の姿なのだろうかとふと疑問を感じてしまうのは私だけでしょうか。

どういうわけか、そんなはずはないとの確信が自分のうちにあります。それはきっとみなさんも同じなのではないかと思います。

ここにはとても大切なヒントがあるように感じます。純粋な愛について見つめていくと、結局自分とは何だろうという質問にぶつかることになります。

肉体だとしたら、本当の愛は見出せないということになりそうですね。そこを何も否定せずに、誰から教わった情報だろうとすべて脇において、そこを検証して見ることは無駄ではないはずです。