赤ちゃんの頃は自意識というものがなくて、ただ周りの状況を興味を持って見ているだけの毎日です。自分がないので、すべては渾然一体となっています。
それがいつしか、周りを見ている自分の存在に漠然と気づくようになっていきます。それは、自分と周りの世界という二つのものが分離してあるという感覚に発展していきます。
そうやって、ただ見るだけの状態から、自分を見られる状態へと変貌させていくのです。その過程は緩やかに起きるので、幼いころには双方が交じり合う時期もあるのです。
私はそのときの経験を確かブログに書いたことがあります。それは、幼稚園の頃かそれより少し前だったかもしれません。
ある時、ふと母親がいつも財布を出し入れしている引き出しに目が行ったのです。そして、とてもすばらしい名案が突如浮かんだのです。
そうだ、そこにあるお金を使って近所のお店にアイスクリームを買いに行こう!そうしたら、気持ちがルンルンしてきて、それはすぐに実行に移すことになりました。
ぼんやりとした記憶をたどって見ると、10個以上のアイスクリームを大きな袋に入れてもらい、大喜びでその袋を抱えながら帰ってきたのです。
たくさんあるうちの一つのアイスクリームを食べながら意気揚々と帰ってきたのは言うまでもありません。左手にそのアイスを、右手には大きな袋を抱えている自分の記憶があります。
こうした行動をしているときというのは、間違いなくただ見ている自分の状態であると言えます。つまり、見られる自分、それは裁かれる自分でもあるのですが、それが不在になった状態です。
だからこそ、無邪気にやりたいことだけをやることができたのです。こんなことをしたら、お母さんに怒られるという発想はなかったのです。
その時には、誰とも対立関係にはなく、世界は自分そのものだったということです。その頃の自分にとっては、こうした純粋に見る自分と見られる自分が入り混じっていたということです。
だから後で冷静になって考えたときに、何であんなことをしたんだろうと反省することもできるのです。私たちは成長するにつれて、ただ見ているというこの大切な感覚を失っていってしまいます。
目下のところ、私の人生の目標はいい意味であの時の感覚を取り戻すことに集中させています。なぜなら、あれは「あなたは私」という思いと同じだからです。
これがすべては一つという愛の想念だと思っています。子供のままではいられないのは、一度見られる自分になって地獄を見る必要があるからかもしれません。
それを経由して、そこからまた気づいていくことが誰の人生でも設定されているように思えるのです。だとしたら、一刻も早く心からの気づきを得たいものですね。