私たちは幼い頃からずっと、いけないことをしてしまったら反省して、自分の言動を悔い改める必要があるという教育を受けてきました。
例えば嘘をついてはいけないとか、人の道に反したことをしてしまったら、悔い改めて二度とそのようなことをしないように心を入れ変えるべきと教わるのです。
この悔い改めるとは、自分は悪いことをしたとして後悔するということが大前提としてありますね。その上で自分の言動を改めるということ。
ということは、罪悪感を感じる必要があるということになります。悪いことをしたのだから、罪悪感を感じて当たり前だろうと一般には考えられていると思います。
まともな人、心が成熟している人、そうした人であれば必ず、自分がしてしまったことを後悔するものだとの考えがあるのです。
しかし、本当に大切なことは後悔することではなくて、ただ単に改めることだけなはずです。「悔い改める」の「悔い」の部分は不要なのです。
ですが、私たちは常識的な感覚として、悪いことをした人に対して悔いることを要求したいという思いを持っています。つまり罪悪感を感じることは場合によって必要だと思っているのです。
しかし、長い間人の心というものを見てきて思うのは、罪悪感ほど人の幸せの邪魔をするものはないということです。
このことは誰が何と言おうと動かしがたい事実です。罪悪感を持ちつつ幸せであるということは決してあり得ません。
私たちは誰もが幸せになりたいと望んでいる反面、こうして罪悪感の必要性を信じることで、ある意味幸せよりも大切なことがあると思っているのです。
それこそが「正しさ」なのです。だからこそ、誰かから被害を被ったら、その相手が罪悪感を感じて当然だとの思いがあるのです。平たく言えば謝って欲しいという気持ちですね。
本当は誰もが幸せになる権利を持っています。それは正しさよりも何よりも大切なことですね。ですので、少なくとも、誰かが自分のために罪悪感を感じることをよしとしないように振舞えるといいですね。