私たちが求めていることを大胆に二つに分類するとしたら、それは平安なのか、それとも戦いなのかということになってしまうのです。
心の平安というのは、目に見える状態としては世界や身近なところの平和になるんですが、それじゃあ誰だって平和を求めているに違いないと思うかもしれません。
でも本当はそうではないのです。世界のどこかではいつも戦禍が絶えないのですが、それに比べれば今の日本は確かに平和そうに見えます。
しかし、これは目に見える戦渦がないだけで、冷戦状態が続いているともいえます。それはきっと私たちの心が日々戦っているからです。
つまり、平安(平和)を求めているという自覚の裏には、戦いを求めている心があるということです。百歩譲って、それは平和を手に入れるための戦いだと言えるかもしれません。
戦いに勝つことで安心できるからですね。地球のあちこちで起こっている戦争だって、当事者にしてみれば相手が悪いので自分たちが安心して生活できるようにと戦っているだけだと言うでしょう。
それは実は不正を暴いて自分は正しいと証明しようとする行為であり、結局これも安心を手に入れようとする行為であるといえます。
ところがこの安心がクセモノなのです。実は、この安心とは戦ってしか得られないものだと私たちは信じてしまっているからです。
これは心の中にいるエゴの策略なのです。そして、エゴは安心することが目的ではなくて、その目的を達成するために戦う心を維持させようとするのが本当の目的なのです。
私たちはそれとも知らずに、日夜戦いの日々を過ごしているということです。分かりやすい例で言えば、中東の方で起きている戦争は、宗教戦争や土地争いがほとんどです。
宗教戦争とは、自分たちが信じる神だけが本当の神なので、他の人が信じている神はニセモノだとしてナキモノにさせようとするのです。そうやって自分たちの正しさを証明することで、安心を得ようとするのです。
領地戦争にしても、この土地は先祖代々自分たちのものなんだから、お前たちは侵略者なので出て行けという論理であって、出て行かないなら攻撃するということですね。
もう気づいたほうがいいと思うのですが、安心を得るための戦いは、実は戦いそのものが目的だったということです。
安心を得たいのなら、その方法を決して使わないように放棄することです。安心とは心の平安のことですから、それは戦いを放棄することでしか達成できません。
大音量でロックを聴くことが平安を求めていると言えるでしょうか。絶叫マシンに乗ってスリルを味わうことが平安でしょうか。
クルマのレースでスピードを競ってみたり、政治討論をすることが本当に平安を求めていることだと思うでしょうか。
もうそろそろ分かりましょう。私たちは決して平安を心から求めてはいません。戦いの中にいたくて仕方ないということです。
しかし、本当の幸せとは永続的な心の平安なのです。まずは、平安を求めてはいないという実感を毎日の生活の中で感じるようにしてみてはどうでしょうか。
そしてそれが理解できたら、戦うことを少しずつ手放していくように意図的に生活するよう工夫していくことです。本当は誰もが心の平安を願っているのですから。