愛を使う難しさ

本当に幸せになりたいのなら、本当の心の平安を得ることしかないのですが、そのためには自分の本質について気づいていくこと以外にないのです。

真の自己とは、愛の塊であるはずなのですが、そのことを忘れて毎日生活しています。そのことを思い出さずして、真の自己のことが分かることはありません。

としたら、その愛を思い出すことを徹底的に訓練することですね。自分の中にある愛を認識する最高のやり方は、それを十二分に使うということに尽きます。

ところがここで、はたと気づきます。なぜ自分にはそれが簡単ではないと思えるのだろうかと。とにかく愛を使えばいい、その経験値を増やせばいいと分かっても簡単ではないと感じてしまう。

自分の心がまっさらで、中立の状態であったとしたら、愛を使おう→即愛を使う経験をする、ということになるはずです。

でもそれができないとしたら、ここで注意深く心の声を聞いてみる必要があります。そうすると、必ずそれが簡単ではないと感じる理由が見つかります。

それは、普段は気づかないようになっているのですが、本当のところ、私たちは愛に気づかないように気づかないようにと気をつけながら生きているということです。

愛に気づかないように注意深く、用心しながら生活しているのです。実はその用心にものすごいパワーとエネルギーを注ぎ込んでいるのです。

例えば、思い切り握りこぶしを5分くらい力いっぱい握り続けておいて、いざ手のひらを見せてくださいと言われても簡単には開くことができなくなる、あれと同じ原理です。

トイレに行きたいのを都合により限界まで我慢してしまってから、いざトイレでおしっこをしようとしてもいつものようにすぐには出ない、あのもどかしさ。

あの時は、おしっこをすることが簡単ではなくなっている瞬間とも言えます。これみんな同じことなんですね。急激な方向転換には無理があるんです。惰性というものもあるわけですから。

話しを元に戻して、そうした理由で愛を使う、愛を与えることがそうそう簡単とは思えなくなってしまっているということです。

でも、自分が愛から遠ざかろうと激しくそこに投資していることに気づいて、そこから徐々に手を引いて行くことができれば、今度は逆に当然のごとく、愛を使うことが容易になってくるということです。

本来、我々は愛そのものなのですから、愛を使うことが難しいなどということはないはず。愛は使っただけ心の中で増えた感触を得られるのです。そうやって、真の自己を思い出しやすくなるのです。

一日、一回でもいいですから、何かをお願いされたときに、ああ、これ愛だったら断らずにやってあげられそうだなと思ったら、愛を使うチャンスだと思うことですね。間違っても自己犠牲で相手のいうことを聞いてしまわないようにすることも大切です。

あとは、自分の選択に任されています。自分を防衛しようとするのか、愛を使おうとするのか、両方を同時には選択できません。必ず択一だということも覚えておいて欲しいと思います。