何年か前に大勢の人たちと一緒に瞑想しているときに、自分は「大澤富士夫」ではないなと感じたことがありました。
だからといって、他の誰かであるわけでも勿論ないのですが、今まで生きてきた自分の歴史との繋がりがバサッと取れてしまったような感じになったのです。
幼い頃の思い出や小中高大と過ごして社会人になってという経過を忘れたわけではないのに、それが今の自分と繋がらないような不思議な感覚でした。
それは自分なりに解釈すると、今まで作り上げてきた自分のアイデンティティが消えてしまったかのような感覚とでもいうのでしょうか。
自分の名前とそれに対応する自分の姿というものが、急になくなってしまった感じがしたのです。こういう親に育てられて、こんな友達が回りにいて、というのが幻のようになりました。
過去への記憶に現実感がなくなってしまったのでしょうね。それはある意味とても新鮮な経験でした。それまでの人生でそうした体験は一度もなかったからです。
それと同時に、それまでの自分が自分に課してきた様々な制限や縛りなどからも開放されたように思いました。その中で一番自分にとって大きかったのは、助けてもらってもいいんだという思いでした。
そんなの当然だと言われそうですが、どうも自分の中では人からの助けは不要と思っていたらしいことが分かったのです。
ずいぶんと傲慢な生き方だったと言わざるを得ませんね。人は長い人生をかけて、自分の自己像というものを作るのですが、ある意味それを打ち砕いたともいえます。
でもそれは完全なものではなく、ほとんどは戻ってしまいましたが、それでもその時の爽快感のようなものは、はっきりと今でも覚えています。
そして、またあの体験をしたいなと思ってもいます。あれが、本当の自分に近い自分の姿なのかもしれないと感じるからです。 あの時の自分は、とても中立で愛に満ちていていい奴でした(笑)。