私が10年前まで勤めていた会社で一番いやだったのは、人の悪口でした。仕事を終えて仲間同士で飲みに行く楽しい時間なのに、誰からとも知れずに社長その他の管理職の悪口が始まるのです。
悪口というよりも、愚痴を言い合って互いに傷の舐めあいをしているような、あるいは自分は彼らほど馬鹿じゃないという見下しをしているようで、そこにいるのがとても苦痛でした。
そういうときには、いつも「会社がいやだったら辞めれば」と言ってたと思います。そうすると、また楽しい話題に切り替わるのですが、しばらくするとまた始まるという具合でした。
つまり、愚痴を言っている人はあまりその意識がないままに言い出してしまうわけです。よほど、鬱憤が溜まっているということでしょうね。
愚痴を言い合って日頃の憂さ晴らしをすることで、その時はスカッとしたいい気分になるのかもしれません。しかし、それは麻薬のような一過性の快楽を得ているに過ぎないのです。
愚痴を言い続けている人とは、麻薬を投与し続けて何とか生き延びているような人だということです。辛らつに聞こえるかもしれませんが、本当のことです。
ですから、相手の愚痴を聞き続けてあげている人は、麻薬の打ち手だということになってしまうのです。あまりに相手が辛そうなら麻薬の注射でも打ってあげたくなるのが人情ですね。
親は子育ての過程で子供の話をよく聞いてあげることがとても大切なのですが、それが現実には親子が逆転してしまって、親自身の愚痴を子供に聞かせ続けてしまう場合もあるのです。
幼い子供はやさしい心を持っていますから、いやだなと思っても辛そうな親を見捨てることができないために、自己犠牲を強いてまで親の愚痴を聞き続けてしまうのです。
自己犠牲の蓄積は必ず怒りの塊へと変化します。その怒りが、後々今度は自分が誰かに愚痴を聞いて欲しくて仕方ないという現実を起こしてしまうのです。
そうした悪循環を断ち切るためには、自分自身がまず人の愚痴を聞かないという態度を作り上げることです。この決断はとても重要です。
私が個人セッションでクライアントさんのお話を聞くのは愚痴を聞いているのではなく、癒しを進める上でヒントとなる大切な情報をキャッチしたいからなのです。
愚痴を言いたい気持ちが悪いのではなく、それを独りで開放しないことが問題なのです。セッションでは怒りのワークの方法をお伝えしています。それを繰り返すことで、少しずつ愚痴を言いたい衝動が減っていくはずです。