個人セッションにいらっしゃるクライアントさんや講座を受講されているみなさんのお話しを聞いていると、人はいかに罪悪感に目がないかということを思い知らされるのです。
残念ながらそれをはっきりと自覚できる人はごく少ないのかもしれませんが、自覚のあるなしにかかわらずそれを求めていることは明らかです。
罪悪感という言葉よりも、自分への駄目出しを必要としていると言ったほうが近いのかもしれません。自己嫌悪や自己否定というニュアンスです。
情けない惨めな自分を見出そうとしているということです。幼い頃には大人と比べればそれは能力も経験も比べようもないくらいに劣っているので駄目出しは簡単にできます。
しかし、大人になるにつれて、そうそう駄目な自分というものを簡単には見つけにくくなってくるのも確かなのです。表面意識としては、駄目な自分など否定したいわけですから。
そうなってくると、何とか駄目な自分というものを探してやっぱり駄目なんだ、悪者なんだ、罪深いんだというように思おうとするということです。
ですから、傍から見ていると何ともわざわざ自分を落とし込むような体験や、思いなどを使って駄目な自分を証明しようとしているというのが見えてしまうのです。
自分に気が付いている人は、自分が罪悪感を求めている、駄目出しをしようとして手ぐすね引いて待っているとどこかで感じているのです。
単純な失敗やミス、病気や具合の悪さ、怠け癖、卑怯な考え方など、ありとあらゆるものを駄目出しの材料として使うのですから、どんな自分であっても駄目出しに困るということはありません。
やっぱりこんな自分は駄目なやつだという烙印を押すことで、なぜか安心することができるのですね。そこが自分と人との関係性の中での定位置とでも思っているかのようです。
そんなことで安心しようとする意識とは勿論幼い頃の自分の心に違いありません。その気持ちを十分に受け止めて、認めてあげることです。
何度も繰り返すことで少しずつわざわざ駄目な自分をみつけようとは思わなくなってきます。罪悪感は誰のことも幸せには決してすることはないですから、こうしたことをしっかりと心に留めて生活することは大切なことだと思います。