私たちは深い愛を持って他人に接している人を見ると、自分まで暖かな気持ちに包まれた気がしてきます。逆に、怒っている人を見ると何となくいなや気分にさせられてしまいます。
もしもその怒りが自分に向けられていると感じたら、それこそ恐れが出てきたり、似たような怒りが沸いてきてしまうかもしれません。
しかし実は、愛とは無縁であるような攻撃的な気持ちというものをよくよく見てみると、それは愛を求めている気持ちの表れだと分かります。
最も分かりやすいのは幼い子供の例です。たとえば、何か気に入らないことがあって母親に怒りをぶつけている子供であれば、それは必ず母親への愛を求めていると分かります。
もっと自分をかまって欲しい、もっと聞いて欲しい、もっと抱きしめて欲しい、こうしたもっと愛を頂戴という愛への嘆願がその子供の怒りの形となっているということです。
姿かたちは怒りの形相をしていたとしても、心の中は単にやさしい愛を求めて訴えているだけだということです。
これは何も子供に限ったことではなくて、大人の場合にもそのまま当てはまるのです。私たちは大抵外見に捉われてしまいがちで、その奥に隠された愛への呼び声に気付かないのです。
酒乱の夫や父親が、お酒によって家族に怒鳴り散らしている姿はとても正気とは思えないかもしれません。しかし、それも例外ではなく、心のなかで、僕は悲しいんだよ、寂しいんだよ、と愛を求めて訴えているだけなのです。
人が愛以外の感情、特に怒りをぶちまけているときというのは、間違いなく助けを求めているのだと理解することがとても大切です。
そしてもしも、そのことに気付くことができたら、自分が出来る範囲で助けてあげればいいのです。怒っている人から遠ざかりたい気持ちは勿論あってもいいのです。
ただ可能な限りはその人の助けを求める叫びを聞いてあげて、できる援助をすることです。その叫びは実は自分自身の助けを求める声でもあるからです。
人の助けを求める訴えを受け止めることで、自分も助けて貰えるのだということを心から理解することができるのですから。