息子がまだ小学生のころ、彼は普通の男の子と同じようにテレビゲームに熱中していました。しかし、そうしたゲームというのは大人が買ってもそれほど安くないような価格でしたので、本人が買ってもらえる数には当然限りがありました。
そうなると、どうしてもやりたいゲームがあると友達とシェアし合うわけです。子供なりの知恵というか、互いに貸し借りをして自分が持っていないゲームもそうすることで楽しむことができたのです。
ところが、その貸し借りが親の目からするととてもルーズで困ったものだと感じたのです。特に母親としては、息子が所有しているはずのゲームがいつまでたっても戻ってこないし、また買ってあげてないゲームを息子がいつまでもやっていたりするからです。
貸し借りが多重化してくると、もうどれが誰のゲームなのかも互いに把握することが難しくなって、いつの頃からか母親の支持によってみんなが自分の所有するゲームに名前を書くようになったのです。
そこまでしないと借りっぱなしと貸しっぱなしが横行して収集がつかなくなっていたのです。それでも息子たちはあまりそうしたことに頓着がないようでした。
つまり、これは僕のゲームだから終わったらすぐに返してねという強い思いがないのです。きっと、ある程度やり遂げたゲームを返してもらう必要など感じてないということだったのかもしれません。
そこが親が持っている感覚とかなりずれているようでした。自分のものは自分のもの、人のものは人のものというこの当たり前の感覚が子供たちにはあまりなかったのです。
こうした状況を見ていたときに、所有するということがそれほど大事なことだろうかと考えさせられたのです。
どうも所有するということにかなりの執着というのか、思い入れがあるようです。多くの戦争の目的は、領地の争奪戦だったというのも頷けます。
そのためにたくさんの人の命が犠牲になったということは歴史がはっきり物語っています。私たちは、かなり高額なクルマを買ったりしてマイカーなどと呼ぶ習慣がありますが、月に一回くらいしか乗らないのであれば、所有しなくてもクルマを使う手段はいろいろあるはずですね。
音楽CDやDVDなどはもうすでにレンタルしたり、ネットからダウンロードして利用するということがかなり一般的になってきています。
きっとこれからの社会では、人々の心が進化することで、所有することにあまり強い価値を見出さなくなってくるのではないかと思っています。
みんなでシェアするという発想はとても合理的ですし、それだけ争いごとが減るのではないかと期待しています。みなさんはどう思われますか?