昨日のつづきです。
身体が心を作り出しているという考え方を手放して、そのまったく逆である心が身体を使っているという主従関係を認める必要があるというお話しをしました。
身体というのは何もしませんし、何もできないのです。何の能力もありません。実は見ることも聞くことも触ることも本当はできはしないのです。
お腹がすいたと感じさせているのは身体ではなく、自分の心の思いなのです。自覚がないので分からないのですが、まず空腹という思いをつくりそれを身体に伝えます。
身体はそれをそのまま身体としての表現に変換して伝えてきた主人に返すだけなのです。そこから自分で自覚できるお腹が減ったという状態が発生するわけです。
梅雨の時期に湿気が多くて何だかうっとうしいというのも、身体がそう感じているわけではありません。うっとうしいという思いがまず心の中にあるのです。
それを身体に伝えることで身体はうっとうしいという感覚を返してくるだけです。だから、身体から来ると思える感覚、苦痛、快感などは全部自分の思いを返してきているに過ぎません。
目の前にすばらしい大自然の景色が広がっていて、なんてきれいなんだろうと見るのは、そうした自分の思いを外部に投影しておいて、それを肉体の目に見させるのです。
肉体の目はただそれが見えているという信号を送り返してくるだけです。だから、どんな知覚も身体がやっていることではありません。
自分の内側にある心の中の思いを身体を通して外側から取得していると錯覚しているのです。これが真実なのです。
結局、自分の思いだけがこの世界を形作っているし、身体だと思える自分についても同じことが言えるのです。元々あるのは思いだけです。それ以外のものはことごとくあると錯覚しているに過ぎません。
もしも本当に美しいものを見たいのなら、身体に美しいものだけを見させるように決意すればいいだけです。きれいな音楽、すばらしい景色、愛に溢れた人たち、そうしたものに囲まれて生活したいなら、そう心から思うだけでそれは実現するということです。