私達は無自覚であろうとはっきり自覚していようと、自分のことや他人のことを日々裁き続けて生きています。
自分を裁くと自責の念というものに悩まされることになります。それは罪悪感といってもいいですし、自己嫌悪とか自己否定と表現することもできます。
簡単にいうと、自分へのダメ出しですね。自分をそんなふうに裁いている人は、必ず他人のことも同じように心の底で裁いているものです。
ところで、何かを裁くという時には必ず裁くための基準となるものが必要です。ただ通常はあまりにも当たり前過ぎるようなことは基準など考えなくても裁いてしまいます。
例えば漠然とした人の道に反した行為、悪意のある言動、反道徳的なこと、倫理的でないこと、など挙げ出したらきりがありません。
そういった一般常識的な基準があっても私達は人によってそれぞれ全く同じように裁くわけではないですね。
ある人はこの程度のことは許せると感じるかもしれませんし、別の人はそれは人として絶対許せるものではないとして裁くかもしれません。
このような違いは一体どこからくるのでしょうか。単なる個性の違いということで済ましてしまうこともできなくはないですが、生まれ育った環境による影響も馬鹿に出来ません。
幼い頃に、自分は母親や父親にとって理想的な子供ではないと感じることが続くと、それに対して自分は自分だというように突っぱねることは至難の技です。
なぜなら、幼い心にはそうしたことを主張できるほどの基準となるものがまだ出来上がってないからです。つまり、親の期待や理想などが自分の基準となってしまうのです。
ですから、親にとって自分は都合の悪い子供なんだと感じると、その親の基準に習って、自分はダメな奴なのだという思い込みをしていってしまうのです。
それが結局大人になって自分や他人を裁く時の基準となっているのです。親の期待に応えられない自分は、自分のままでは価値を見出せないと思ってしまうのです。
そうした自己否定感は根強く心の底に残ってしまい、自分に対して自信を持てなかったり、ダメな自分への罰として辛い人生を作り出してしまうことにもなるのです。
自分を責めてしまうとき、その基準は絶対的なものではないし、親の基準を使っていないかどうか、再確認することはとても大切なことだと思います。