大晦日

今日は一年の最後の日ですね。一年というのはご存知の通り、地球が太陽の周りを一周するのにかかる時間です。

実際には約365.25日で一周するので、そのままでは一年当たり0.25日分足りなくなります。そのずれを修正するために4年に一度一年を366日とするうるう年というものを作ったのです。

大晦日には、子供の頃は家族みんなでNHKの紅白歌合戦を見るというのが慣わしになっていましたが、最近はチャンネルを変えながらその時見たい番組を見るようになっています。

今思い返してみると、子供の頃は決まりごとみたいなものが今よりも沢山あったように思いますね。なぜか、大人になるに従ってあまりそういうものに捉われなくなりました。

自分の子供が小さい頃は、そういったものがまた少し復活していた時期もあったように思いますが、子供が成長して大人になった今はまた決まりごとのない毎日に戻っています。

今年一年を振り返ってみると、自分の周りで起きた事象としては何か特筆するようなものは一つもなかったと思います。

ただ、自分の内面の変化についてはいろいろな気づきがあったように思います。それは昨年の秋に出会った「奇跡のコース」という本の影響だろうと思っています。

昨年に引き続き、一年を通してその教えとずっと向き合って来ました。それは、一人で本文を読んだり、ワークを実践したりということだけでなく、月に一度の勉強会を通してみなさんと一緒に学んできました。

また、講座や日々のセッションを通して、コースの教えをみなさんに伝えながら自分も多いに学ぶことができたと思っています。

コースの教えはとてもシンプルです。ですが、だからといってそれを実践することは難しいですし、また理解の度合いもほんの少しずつ心の奥に染み込んでいくような感覚があります。

一年後の大晦日の日は、今と比べてどれだけの気づきを得ることになっているのか、それを想像するとワクワクしてきます。

今年一年、何らかのかたちで私と係わってくださったすべての人たちに感謝しています。あなたがたのおかげで私は沢山の学びの機会を与えられたのですから。

本当にありがとうございました。また来年、ご一緒に心の癒しを進めていけたらと思います。

必要とされること

何日か前にこのブログで、見捨てられるということが人間が感じる最大の苦悩だということをお話ししました。

見捨てられるというのは、役に立たないとか、用なしとかいう意味合いを感じますね。つまり、必要とされてないという感覚にも近いかもしれません。

しかし、見捨てられることが最大の苦悩である本当の理由は、自分は愛されていないという感覚になることが原因なのです。

愛されているという体験があまりにも足りてないと、見捨てられるという苦悩から逃れるために愛されたいと望む代わりに必要とされたいと勘違いしてしまうことがあるのです。

本質的には愛されることと必要とされることは全く別のことなのですが、この二つを混同してしまうということです。

そこから何かと頑張る人生が始まるのです。つまり、必要とされ続けるためには自分の能力や行動を認められることが条件となるからです。

何の取り得もなければ、人は自分を必要としてくれるはずがないと考えてしまうからです。必要とされること、それこそが自分の価値だと思い込んでしまうのです。

厳密に言うと、本当の愛は何も必要とはしません。何かを必要と感じるのは、人間が持っている欠乏感からくるのです。

ですから、それは愛とは程遠いものなのです。最も月並みな例をあげれば、依存心であろうと相手を必要とするのです。必要とされていることが愛されていると錯覚してしまうと、依存者に依存させる共依存になってしまいます。

もしも、自分はあまり人から必要とはされていない感じがすると思っているのでしたら、それを解決するために頑張るのは得策とは言えません。

それは単に愛が足りてないという感覚ですので、自分が愛を与える存在になることです。そうすれば、必ず愛を与えてもらえるようになるのです。その結果、必要とされなくても満たされた心でいられるようになるのです。

支払い

数日前にこのブログで、自分が受け取るお金を報酬としてみることをやめて、人生に必要なものを与えられたのだとすることで感謝の気持ちになれるということをお話ししました。

それに付随して、自分の労働や成果を報酬を受け取るための取引の材料とするのではなく、愛を持って与えることにより報酬を期待しない人生にしていけるということもお話ししました。

今日は逆に自分の方が相手にお金を支払う側の時のことについてお話しします。例えば街に出て買い物をする場合、欲しいなと思ったものを手に入れるためには、その品物の定価分の支払いをします。

このときに、欲しいものが手に入ったことを喜ぶ気持ちと、お金を使ってしまったなあと悔やむ気持ちの両方があるかもしれませんね。

しかし、自分の気持ちをその前者の方に全面的に向かわすことができたら、嬉しさだけを感じることになります。

そうして、お金を使ってしまって所持金が減ってしまったというところに意識を向ける代わりに、欲しいものを手に入れることができた感謝の気持ちを支払うお金に乗せるのです。

つまり、この支払うという行為についても、品物を受け取ったという対価として相手に支払うという意識を手放すのです。

形としては確かに相手が指定した価格分の代金を支払うわけですが、品物との取引としてお金を払うのではなく、そこを切り離してお金を与えるというように気持ちを変えるのです。

そうすると、欲しい物を手に入れて嬉しい気持ちとそのことに対する感謝をお金を支払うという形を利用して相手に捧げるということが同時にできるのです。

こんなお得なことはありません。逆に自分が受け取る品物に見合った額を支払うという意識でいると、想定された額より多い額を要求されてしまうと怒りが出てきてしまいます。

買って損をしたという気持ちになってしまうことの方が余程損であるということに気づくことです。たとえ、形は銀行振り込みであっても全く同じです。お金の支払いは感謝の気持ちを込めて与えることです。 そして与えたものは必ず与え返してもらえるということも付け加えておきます。

偏食

幼い頃から好き嫌いせずに何でも食べられる人っているものですね。それに比べると、自分はひどい偏食でほとんど食べられる物がないくらいでした。

肉類も野菜も果物も全滅で、玉子焼きや乳製品と後はお菓子類で育ったようなものです。ですから、食事の時間が待ち遠しいという経験がありませんでした。

こうしたものは個性として生まれながらに備わっているものなのかもしれませんが、それにしても何でもおいしそうに元気よく食べられる人が若干羨ましかったのを覚えています。

だからといって、食べられるように努力するわけでもなく、小学校に入って給食が始まったときには大変でした。というより、主食の食パンにバターを塗ってそれだけをかじってた記憶があります。

それでも幸か不幸か、嫌いなものを食べるようにと強制されたことがただの一度もなかったので、苦しかったという経験はありませんでした。

そして、ひどい偏食は年齢とともに少しずつ解消されていき、高校生くらいになると果物の一部と肉類はやや食べられるようになりました。

それが大人になるに従って、食べられないとして口に入れることもしなかった様々な食べ物を口に運ぶようになって、ようやく偏食はかなり改善されたのです。

何でも好んで食べるというわけではないですが、今では珍味といわれるような、人が比較的敬遠するような臭みのあるものほど、好きになったりしています。

これは私の考えなのですが、幼い時に嫌いなものを食べるようにと強制されなかったことが功を奏したのではないかと思っています。

無理やり食べさせられる経験を積むと、それを乗り越えて普通に食べられるようになるか、あるいはトラウマになってその食べ物を二度と食べれなくなるかのどちらかではないかと考えています。

幼いころに厳しい幼稚園に通っていたある牛乳嫌いのクライアントさんが、毎日無理やり飲まされたおかげで、大人になって全く飲めなくなって、牛乳を見るのも辛いと言っているのを聞かされたことがありました。

育ち盛りのお子さんの偏食で困っておられる親御さんがいらっしゃるかもしれませんが、無理強いは禁物です。逆効果になってしまう可能性大です。

あまり心配せずに、大人になったら自然と食べられるようになるものだというように広い心で見てあげることです。人間の身体は嫌いなものを食べても、消化吸収しないと聞いたこともあります。

逆に、本人の大好きなものを楽しく食べさせてあげると、身体も喜んで最大の消化吸収の能力を発揮してくれるのです。

イベント嫌い

暮れも押し迫ってくると、どういうわけか誰もが何となく慌しい精神状態になるようですね。師走というくらいですから、のんびり歩いてるわけには行かなくなるのかもしれません。

今年やり残したことがないように、きっちりとけじめをつけて気持ちよく来年を迎えようということなのでしょうか。

自分はそういうことが生まれつき苦手な体質なのかもしれませんが、暮れになっても何も変わらずいつもと同じペースで毎日を淡々と過ごしています。

オフィスの大掃除をするわけでもないし、何の変化もない年末年始です。イベント的なことがあまり得意ではないというはっきりとした自覚があります。

幼稚園の頃は、運動会が大嫌いで母親を置いて自分は先に家に帰ってるからと言って困らせていたそうですから相当なものです。

我が家ではもうずっと以前から、大晦日やお正月だからといってそれほど特別なことをするということもありません。

大晦日くらいは家族全員で食事をするとか、お正月の朝だけちょっと御とそを飲む程度で、それ以外これといった慣わし的なことをするということもありません。

変化がなくてつまらないと言われてしまえばそれまでですが、何かの節目というようなものに対する興味というものがないのです。

年間通して世間ではさまざまなイベントごとがあるようですが、人がそういうことではしゃいだり楽しんだりしているのを見聞きするのは嫌いではないですが、自分はどういうわけかあまり気乗りしないのです。

そういった体質というのは生まれ持ったものかもしれませんが、年齢を重ねるたびに益々その傾向が強くなってきているように思います。

自分の中で何かの節目があるとすれば、それは内的な気付きがきたときかもしれません。そしてそういうことは、時間が経っても覚えているものです。

そう言う意味からすると、自分の内的イベントは全く予想できないものばかりです。これからどんな気付きがやってきてくれるのか、それにはとても興味津々です。

報酬

私たちが仕事をするとき、自分が費やした時間や労力に応じた対価(つまりお金ですね)を報酬として受け取るという目的があります。

つまり、自分の労働とそれに見合った報酬をトレードしているということですね。この取引の考え方は実は基本的にエゴの思考体系の産物なのです。

自分の行動に対してその見返りを求めるわけですから、そこには予想される期待値というものがついてまわります。

自分がこれだけの成果を出したのだから、当然これだけの報酬を受け取る権利があるとするのです。そして、その期待値に対して結果が下回るようだと、損をしたという不満が発生してしまうのです。

一番分かりやすい例が野球選手が球団を相手取って、来年の年棒の契約更改をするわけですが、互いの間で交渉が難航することがよくあります。

選手側は、今年の成績を元にしてできるだけ報酬を高くしようとするし、球団側はできるだけ低くしようとする両者の攻防が起きるからですね。

それほどはっきりした形ではないにせよ、一般的な企業の場合でも雇う側と雇われる側の間にはそういった駆け引きのようなものがあります。

取引というのは結果を想定、あるいは期待しますので必ず不満が起こるのです。そこには愛がないからです。

どんな仕事であっても、与えるという気持ちが大切なのです。そうした気持ちであれば、報酬を期待しなくなるからです。

形の上では報酬のように見えているとしても、受け取るお金は単に人生に必要となるものを与えられたとして感謝すればいいのです。

自分の人生において、大きなシナリオで仕組まれている計画を遂行するために必要となる様々なものが自動的にあてがわれるということです。

それは人材かもしれないし、時間や空間、機会など、そしてその一つとしてお金があるのです。自分が受け取ることのできるすべてのお金を報酬として見ないようにすることです。

そうすると、受け取るたびに感謝の気持ちが自然と湧いてくるようになります。そして、仕事は取引の材料ではなく、与えるものとするのです。

この二つを切り離すことで、期待から起こる不満から開放されることになるし、生活の中に自然と愛が入ってくる隙間が増えてくるのです。試してみて下さい。

初心に戻る

クライアントさんの中には、通常のセッションには対応できないような方がいらっしゃるのも事実です。それは年齢的なこととか、身体的なこともありますが、心理的な状態によってもあり得ることです。

初めのうちは、ごく普通にセッションをしていく中で、単にご本人がしんどそうだなという感じが伝わってくるわけですが、そのうちどんなセッションも太刀打ちできないかも知れないと思うことが出てきます。

それは岩のように硬く閉ざした心をお持ちの場合だったり、不都合な自分を頑なに受け入れられない場合などです。何をしても、結局クライアントさんの内奥に浸透して行ってないことを感じてしまうのです。

これはセラピストにとってもクライアントさん本人にとっても辛いことです。今までに幾度かはそういったケースもありました。

そんな時、セラピストというのは本当に無能だなと思い知らされるのです。それと同時に、初心に戻るということを思い出させてもらうのです。

セッションにおいては、人と人との関係性の中にこそ癒しの本質が隠されているということです。策に溺れることなく、シンプルにクライアントさんと向き合うということが大切なのです。

セラピストがどれほどクライアントさんを許すことができるか、どれだけ許しているかということを心から伝える必要があるのです。

クライアントさんは全く自覚のないままに、激しく自分を責めているからです。自分は否定されることはない、自分は受け止めてもらえる、と分かっていただくまで繰り返しそれを伝える必要があるのです。

そして、セラピストとクライアントさんの関係の中で、互いに許すということを感じるようになることができたら、その分だけ癒しが進むのだろうと思っています。

改心

小学生の頃、何年生だったかは定かではありませんが、人の言葉、人の話を聞くというのはこういうことかと分かった瞬間がありました。

自分はどこにでもいる普通の少年だったし、頭も悪くはないし、性格的にも目立った問題はなかったはずですが、きっとその瞬間まで人の話を聞いてはいなかったのでしょうね。

まったく驚くべきことです。それをもう少し深く見つめてみると、自分自身のことと関係のないような言葉はあまり問題なく聞いていたはずなのです。

ただ、自分の心を入れ替えなければならなくなるような、自分の考え方の根本的な部分にかかわるようなことを聞いたとしても、聞こえなかったのだということです。

そしてきっと、その小学生の時に初めて人の言葉を聞いて改心したのではないかと思っています。そのくらい、自分にとって改心するということは難しいことだったのだと思うのです。

性格の素直な人は、人の言葉から自分の考え方を改めることが簡単にできるのかもしれませんが、きっと自分は頑固な気質に生まれてしまったために、それが難しかったのだと思います。

頑固さとは、自分の信念、信条、考え方などを簡単には変える事をしないということです。それは自分の内面に手を入れることを恐れるということです。

人の言葉をふんふんとうなづきながら聞いていたとしても、その内容が心の奥まで届く事はほとんどなかったということです。

自分では、明示的にそうした抵抗をしていたという記憶は全くないのですが、無意識の心の防衛をすでに幼いころからやっていたということですね。

こういった傾向の人は成長すると、自分の正当性で自分を守ろうとするような大人になるはずです。そういう人はセラピスト泣かせのクライアントになる可能性大なのです。

人の言葉は聖霊の言葉だと思って、真摯に受け止める態度がとても大切なのです。そこにこそ、重要な気付きのヒントがたくさん隠されているからです。

見捨てられる恐怖

マザー・テレサの残した言葉に次のようなものがあります。

「ひとりの人間が出会う最大の苦悩は、見捨てられていると感じることにある」というものです。この見捨てられているという苦悩の元は、実は誰でもが心の奥に隠し持っています。

ただ、それを自覚している人とそうでない人がいるのです。その違いは人生の初めの頃の生育環境の差によって起こってくるものなのです。

親に愛されていない、あるいは親の興味が自分以外のところへ向いてしまっている、というような感覚を持ってしまうと、子供はいつか自分は見捨てられてしまうかもしれないという恐怖を持ってしまいます。

そして、その見捨てられるということが確信になったとしたら、それが最大の苦悩だと言っているのです。

そうなると、人生の目標は何とかして見捨てられないように頑張るというところに焦点を合わせることになります。

見捨てられることから自分を救うことだけを考えて生活するようになってしまいます。そのためには、どんな自己犠牲もいとわないという生き方になってしまうのです。

それがまた、第二の苦悩を引き起こしてしまうのですが、本人はそんなことを心配するような余裕がないために、気付かずに自己犠牲を繰り返して生きていくことになります。

それは周りの人からそっぽを向かれることがないように、いい人になろうとしたり、誰からも賞賛されるような結果を残そうとしたり、そういうことに全力を尽くすのです。

それが成功しているうちはまだいいのですが、失敗してしまうとひどい不安感にさいなまれてしまいます。そして、仮に成功したとしても自己犠牲だけが蓄積されていきます。

その自己犠牲とは、自分の本当の気持ちや興味などを抑圧して、人の評価ばかりを気にする生活パターンに陥ってしまうことで、自分が何者なのかという感覚が希薄になってしまうのです。

自分がこうしないと絶対に見捨てられてしまうというありもしない錯覚を持ち続けている限り、自分の人生を生きることができなくなってしまいます。

それはビクビクしながら、一時の安心ばかりを求める愛のない人生になってしまいます。本当の自分は与えることのできる愛のかたまりなのだと気付くことが必要なのです。

豊かさと欠乏感

自分の人生の豊かさとは自分の心の豊かさ、言葉を変えて言えばどのくらい困窮していないかということで表現できると思います。

つまり本当の豊かさとは、心の中の欠乏感がどのくらいあるのかということと反比例するのだろうということです。

自分は足りてない、欠乏しているという感覚が大きければそれだけ豊かではないということになるのです。それ以外に実は豊かさのレベルを実際に図る術はありません。

豊かさは自分以外の誰かと比較することはできません。内的な満足度の問題だからです。私たちはどうしても物質的なことに惑わされてしまいがちです。

しかし、それは表面的なものに過ぎず、あくまでも比較するための材料でしかありません。客観的に見ることができるものというのは必ずそうした性質のものなのです。

比較できるものは、大抵数値で表すことができます。心の満足度はとても数で表現できるようなものではありませんね。

とても月並みなことで言えば、コップに水が後半分しか残っていないという見方をするのか、まだコップに水が半分も残っていると見るかということです。

その違いこそが、その人の心の豊かさによるものだと言うことができます。毎日の生活のために、お金の余裕がなくてギリギリで生きていると思う場合には、豊かな気持ちではありません。

しかし、自分が生きていく上では飢え死にするようなことは決してなく、そのことに感謝をしつつ心はいつも穏やかだというのであれば、心は豊かであると言えるのです。

この両者の場合に、物質的には全く同じであるということがあり得ます。結局、豊かさとは選択することができるものだということです。

であれば、あなたはどちらを選択したいと思うでしょうか?勿論どちらでも自由に選ぶことができるのです。