罪悪感を人一倍感じやすい人は、いい人であることが多いです。これは決して偶然ではありません。いい人がたまたま罪悪感をたくさん持っているのではなく、罪悪感に敏感だからいい人にならざるを得ないのです。
つまり、少しのことでも自分を責めてしまう傾向が強いと、大したことではないにも関わらず自責の念にやられてしまうため、本人としてはそれが辛いのでできるかぎりいい人になろうと頑張るのです。
誰でも自分の何らかの言動によって、周りの人を傷つけてしまったり、いやな気持ちにさせるようなことがあれば、それは確かに悪い事をしたなと後悔するものです。
その時に、どのくらい自分を責めてしまうのかは人によって様々なのです。一度謝ったのでもう大丈夫と割り切ってすぐに忘れてしまえる人もいれば、いい人のようにいつまでも後悔の渦の中に落ち込んだままになってしまう人もいます。
こうして罪悪感が強い人ほど、いい人路線を突っ走ることになっていくのですが、その度合いが大きすぎるといい人を継続するだけ自己犠牲を溜めていくことになってしまいます。
いい人路線、つまり自己犠牲を強いていい人を演じて罪悪感を感じないようにするのか、あるいは自己犠牲を手放し、いい人になることをあきらめて、辛い罪悪感と格闘するのか、二つに一つだと思いがちですね。
しかし、そのどちらにしてもエゴの領域なのです。そのどちらも選択しないという選択があるのです。それが、エゴの代わりに愛を選択するということです。
愛はいい人になって罪悪感から免れようとするのではなく、罪はないとして罪悪感を認めないでいられるのです。だからこそ、自己犠牲を払うこともないし、とりたてていい人になろうと思うこともありません。
自分はそこそこいい人と思われてるかもしれないという自覚のある人は、このことをよく見つめてみて下さい。いい人は努力してなるものではなく、愛を選択することによって自然と気持ちのいい人になるのです。
今この瞬間からでもいい人を卒業して、できる限り愛を選択するようにしていくことです。いい人を手放す恐れに負けないためにも、聖霊を信頼してすべてを委ねることです。