自分の周りには沢山の人がいます。生まれた時から今日までに一体どのくらいの人達に会って来たか、もし数えることができたら面白いかもしれませんね。
ものすごく交友関係の広い人もいるし、私のように比較的人とのお付き合いの少ない人もいて様々ですね。私は今の仕事をするようになって、それ以前までの会社員の時の生活では考えられないくらいに多くの人と密に接するようになりました。
といっても勿論、プライベートなお付き合いではないのですが、それでもセッションを通してクライアントさんの心の深い部分を共に見させていただくという経験をすることができるので、沢山の人の人生を自分が生きたのと同じような感覚があります。
人は自分の鏡とよく言いますが、これは「コース」的に言えば投影ということになります。自分の心の中にある、特に抑圧された部分をこの世界と言う3次元の空間をスクリーンとして映写して見ているのです。
ですから、自分の心の中にないものは私たちは見ることができません。あるものだけを見せ付けられているのです。それは、映画館で上映されるスクリーン上に展開される映像のすべてが、客席の後ろにある映写機からの投影であって、前もって撮影されたものを見せ付けられているのと同じです。
フィルムに撮影されてないものを見ることはできません。したがって、地球のどこかで繰り広げられている戦争のような残酷な状況にしても、単に映写されている像というわけです。しかも、それは自分の心の中に予め撮影されてあるフィルムの投影であるということです。
そんな残酷なものを自分が持っているのかと疑いたくなるのも分かりますが、でも例外はありません。フィルムの中のもの以外見ることも聴くこともできないのですから。
だからといって、自分が極悪非道な悪党だということではありません。自分の心が戦争を引き起こしているからと言って、自分を責める必要もありません。なぜなら、スクリーン上に展開されているものは、監督や俳優や脚本によって作られた映画と同じだからです。
残酷なシーンの脚本を書いたからと言って、そのシーンを撮影したからといって、その役を演じたからといって、俳優さんはじめスタッフの人達が罪悪感を持つことはないですね。
身近なことに話を戻すと、日々自分が話しをする相手や一緒に仕事をする仲間など、その誰もが自分の心の中のフィルムの登場人物であるということです。
そして、私たちは決して無作為な乱雑なその場限りの映像を投射して見させられているわけではありません。何度も言うように、映画と同じように作られたものを見ているのです。ただし、リハーサルなどはないはずですが、その代わりに想念というものが使われます。
つづく