幼い子供はみんな親や周りの大人に依存して成長していきます。そして大人になるに連れて依存ばかりしていた毎日から徐々に自立の道を進んで行くことになります。
この世界では、依存は幼稚な精神状態であり、自立が成熟した心だと見なされていますね。そして精神的な自立をしていない依存者は、見下されてしまったり正当な扱いを受けなくなってしまったりします。
なぜ、自立は高い評価をもらえて、依存はダメなのでしょうか?私たちの記憶の中に、何でも自分でできる親や大人はすごいな、それに比べて人にやってもらわねば何もできない自分は情けないな、という共通の自己嫌悪があるのです。
だから依存は自己嫌悪のイメージを想起させるものなのでしょう。しかし、ここで本当に価値のあるものは何かをいつものように思い出すと、それは幸せであることです。幸せとは永続的な平安な心の状態です。
自分の心が依存中心であろうが、自立してようが、本来どうでもいいわけです。価値は幸せだけですから。ところが、依存的な心というのは、その依存対象が人だったり、お金だったり、環境だったりするわけで、そういったものは例外なく変化してしまうものばかりなのです。
変化してしまうものに依存するからこそ、幸せの定義である永続的な平安からは程遠くなってしまうのです。そこにこそ、あるいはそこにだけ依存の状態の問題点があります。
ということは、依存対象が永遠のものであれば幸せになれるという可能性が見えてきます。かえって、自立している人よりも圧倒的に幸福になることができそうです。
なぜなら、自立してる人というのは人間である自分に依存して生きている人だからです。自分とは、これこそ変化してしまうものに過ぎません。
まとめると、依存そのものがいいとか悪いとか価値がないとかいうことではなくて、依存する対象が通常は変化してしまうものであるために、幸せにはなれないということなのです。
もしも決して変化しないナニモノかに依存することができたら、それは完全なる永続的な平安を手に入れることができそうです。不変であるものとは、この世のものであるはずがありません。
それは、神や聖霊などといった人知を超えたものということになります。だからといって、一般的な宗教を思い浮かべる必要はありません。心の中での話しですから。
通常の意味での依存も、自立もどちらも真の幸せには手が届かないということです。永遠なるものへの依存、これだけが本当の幸福、真に価値のあるものだということに気づく必要があると思います。