「奇跡のコース」を学んでいると、真の赦しというものがどれだけ大切なことか、そしてそれがどういうものなのかということを理解することができます。
しかし、理解することだけではやはり何の意味もありません。日々の生活の中でどれだけ実践していくかということにこそ、本来の意味があるわけです。
過去に起きた、本人にとってはとても大きな心の傷になっているような出来事があるような場合には、それを赦すことはとても難しいと感じてしまうのは当然のことですね。
しかし、実際には赦しの実践において、これは難しい、これはたやすいというように、赦しの難易度があると感じるのはこの世界の錯覚だと「コース」は言っています。
であれば、どうしても難しく感じてしまう案件に引っかかって赦しの実践をストップさせてしまうよりは、毎日の生活の中で比較的小さな事と思われるようなことに対して赦しの実践をしていく方がいいということになります。
私たちは、理不尽なことが自分の身に降りかかってきたと感じた時には、自分を防衛しようとする無意識の活動を起こすために、相手への攻撃的な怒りを発動させます。これは、相手を裁いた結果であることは明白です。
相手に対して、あなたの言動はまともではないので、私はそれに抗議もするし、あなたを否定したくもなるのだとして、自分を正当化しようとしてしまいます。
これが、赦しのちょうど真反対な生き方であるわけです。自分を正当化しても決して人生が幸せになるわけではありません。それよりは、相手を裁くことを手放して、赦すことを実践するのです。
赦しの実践を継続させることで、それを習慣にしてしまえばいいのです。習慣化されると、当たり前のように「赦す」ということがいつも頭のどこかにあるため、いつなんどきでも忘れることがなくなってきます。
「コース」の教える真の赦しとは、罪はないとして赦す、あるいは何も起きてないとして赦すということなのですが、これはなかなか受け入れがたいですね。
私は個人的にはそれよりも、まず赦すことを当たり前のように意識して生きる習慣をつけることから始めることが大切だと思います。
そうして、実践を重ねることで、我々が普通にしているエゴの赦しと真の赦しの違いが身をもって分かってくると思うのです。
エゴの赦しの場合には、赦したつもりでも相手の応答によってはまた怒りが出てきたりしますし、あるいは赦したつもりでもしばらくしてただ我慢していただけだったと気づく時もあります。
そういう時は、これはうまく赦せてないなと何となく自分で分かるはずです。このような失敗を繰り返すことも必要なことかもしれません。
そして自分なりに工夫をするようになっていきます。私の場合には、相手を赦したくない気持ちが少しでもあれば、それを自分の心の愛の部分に投げてしまいます。
それをしつこく何度も繰り返して行くうちに、何となく気持ちがすっきりとしてきたりします。他にもいろいろな工夫をして赦しの実践をしています。
そして気が付くと、今まで気になっていたことが、どうでもいいやという気持ちになっていたりして、それはとても嬉しいことです。その分だけ生きやすくなったということですから。
それを実感すると、今後も赦しの実践を続けて、更に真の赦しに近づけていけたらいいなと思います。