昨日のつづきです。
昨日のブログでは、学んでいけばいくほど、癒しの必要性に気付いて行くというお話しをしました。この学ぶという言葉ですが、何か知らなかった知識を身につけるという意味で使われることもあるでしょうし、知識というよりは経験を通して大切なことに気付いて行くという意味合いもありますね。
この後者の気付くという意味合いでの学びがとても重要なことなのです。気付くという言葉の中には、元々は知っていたけど気付いていなかったという裏の意味が含まれています。
この世界では、全く知らなかったことを勉強してそのことを理解できるようになることがすばらしい事だと思われていますね。勿論それに反対するつもりはないのですが、知っていて気付かないでいたことに気付くようになることは、それにも増して大きいことなのです。
それはなぜかというと、前者の学びはエゴがやっていることであって、後者の学びは愛の部分がかかわっているからです。
エゴは、学んで知識を得ることでそれを自分の攻撃力、防衛力として使うことで自立(自律)する方向に進化しようと企みます。それがエゴを生きながらえさせる方法であるからです。
でも愛の自分は、すでに生まれたときから自分はすべてを持っていることを知っているということです。
エゴは自分がすべてを持っているということには絶対に気付かせないようにします。なぜなら、それがばれたらエゴの存続の危機がやってきてしまうのを知っているからです。
もしも自分が何でも持っていると気付いたら、私たちはエゴのいいなりにはならなくなるはずです。気づきとしての学びは、本来の自分の姿に少しずつ近づいていっているということを意味することになるのです。
気付くということが癒しの過程であって、完全なる癒しとは自分が全てを持っているということに本当に気付くことなのです。