アディクションというのは直訳すると嗜癖(しへき)のこと、分かりやすく言うと何かにのめり込んで、心身に悪影響があると知りつつもやめることができない事を言います。一般的にそのような状態を依存症と言いますね。
これは、エゴが自分に差し出す巧妙な作戦であり、それによって我々はその囲い込みから抜け出られなくされてしまいます。アディクションを持っていないという人はほとんどいないでしょう。
人間はアディクションを探すプロだと言ってもいいくらいに、ありとあらゆるものをアディクションの対象として利用してしまいます。
はじめのうちは、エゴは自分を守るためにそういった対象を探し出して自分に提供します。それとは知らずに自分はそれに飛びつきます。そうすることで自分に都合の悪いことや、見たくないこと、感じたくないことから離れることができると勘違いさせられてしまうのです。
エゴはキミのためだから、キミを救うためだからと言ってそれを与えようとするのです。それはあたかも、気持ちよくなるから試してみなよ、と言って悪い仲間から薬物をそそのかされるのに似ています。
最初は軽い気持ちで始めたことですが、エゴには初めから周到なたくらみがあるのです。ひとたびそれが本人にとってアディクションとなれば、もうしめたもの。エゴは自分を思うようにコントロールすることができるようになります。
アディクションに嵌れば嵌るほど、自分はどんどん愛から遠ざかっていきます。そして、アディクションを続けることが生きる目的と化してしまいます。そのためには、自分の人生のほとんどを台無しにしてしまうのです。
アディクションの全部とは言いませんが、その多くは身体の健康を害するとか、心を蝕むことになるとか、社会性を失うなどの傾向のあるものなのです。
例えば子供がテレビゲームをやり過ぎて目を悪くしてしまうなどは、まだ分かりやすいアディクションですが、大人になってどうしても借金をしてしまうなども実は立派なアディクションなのです。
常識的には借金をしたいという人はいないはずなのですが、エゴにかかるとそれも一つのアディクションとして利用できるのです。しかも、一般的にアディクションとは見なしてもらえないので、本人はとても辛い人生を送ることになってしまいます。
アディクションがとても重い状態にまでなってしまっている場合には、とても自分一人の力では抜け出すことは難しくなってしまいますので、専門医や心理療法などを受ける必要があると思います。
しかし、そこまで行かないような場合には、いつも言っている赦しによってそこから脱出することができます。アディクションしている自分を客観視し、エゴに翻弄されているだけだということを理解してあげるのです。
そして、そんな自分を充分に赦してあげることです。赦すことができると、自然とエゴはアディクションから手を引いてくれます。なぜなら、赦しの元には愛があるからです。愛に触れるとエゴは溶けてしまうので、その作戦を続けることができなくなるのです。